当俱楽部の収集品のご紹介。 瀬戸ノベルティ文化保存研究会・瀬戸ノベルティ倶楽部

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“これこそ、せともの”セトノベルティの魅力を紹介し、その技術継承に努める市民活動団体です。

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当俱楽部の収集品のご紹介。

7月21日
☆今日21日(土)、あまりの猛暑のため、当「瀬戸ノベルティ俱楽部」はお休みとさせて頂きます。あしからず、ご了承下さい。


7月21日
☆当俱楽部の収集品をご紹介します。“オキュパイド・ジャパン(Occupied Japan)”時代、日本が敗戦後、GHQの統制下にあった時代の碍子(がいし)、つまり、絶縁体のオキュパイド・ジャパン製品で、きわめて珍しいOJ製品です。

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*これらは、当会が2014年4月18日に入手していた「ありし日の『山国製陶』」の製品です。
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*このマークの中、“48”はおそらく1948年製のことです。

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*↑このマークは「山国製陶」の社印です。

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*この碍子には“Occupied Japan”の文字がありませんが、48は1948年製を意味していると思われます。

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*これは、ちょっと小ぶりの碍子です。
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*「山国製陶」は、今きわめて評価の高いルイ・イカールの製品を独占的に製造していたノベルティメーカーでした。山国製陶は占領下、電気の絶縁体(碍子・がいし)を作っていました。これらの碍子は、2014年、当会が同社工場の解体中、現場の地中から“発掘”したものです。山国製陶は大手の瀬戸ノベルティメーカーで、倒産しました。オキュパイド・ジャパンの碍子は日本の戦後復興と深く関わっていました。 
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(↑ありし日の山国製陶:2013年当会撮影)
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(↑解体中の山国製陶)↓
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(↑解体された工場跡から“出土”したオキュパイド・ジャパンの碍子〈がいし〉↓)
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*当会は同社の工場解体の折、地中に埋もれ、土の中から掘り起された“オキュパイド・ジャパン碍子”を発見し、収拾していました。
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*↑左奥の緑色の建物が集団就職の人たちが住んだ寮。工場棟の建物が取り除かれ、露わになった土の中から当会が偶然見出したのが碍子でした。↓
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*ルイ・イカールなど、ノベルティの名品を作ってきた山国製陶でしたが、同社は戦時中から敗戦後の占領時代には碍子を作っていたのです。そうした事実が会社の倒産と工場の建物の解体とによって明らかになった訳です。
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*こうした碍子はオキュパイド・ジャパン時代にも盛んに作られていたのです。それは何故だったのでしょうか。それを知る手がかりがあります。当時の業界紙「陶業タイムス」、昭和24年2月17日発行号に『碍子の大量需要~電源五ヵ年計画策定~』という記事が掲載されています。「政府は経済復興五ヵ年計画の一環としてその動力源である水力資源を開発するため、電源五ヵ年計画を樹(た)て、24年度より本格的に着手する予定である。差し当たり緊急を要する全国37地点に対し、総司令部の承認を得次第、着工すつ準備を進めており、総予算は624億円で、本年度分22億円を予定している。なお、これに要する特高圧碍子その他の所要量は未だ明らかではないが…」と記されています。その文章に続いて37地点のダム計画が記載されています。↓
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*この資料にあるように、碍子(がいし)は戦争、そして戦後復興と深い関わりを持っていました。戦時中は、日本が中国などアジア各地に軍を進めるために必要とした軍需資材であり、敗戦後は経済復興に必要な電源開発のための需要でした。碍子というやきものも、敗戦、そしてGHQの占領によって戦争資材から平和産業資材へと転換していったのです。
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*↑当会代表による著書です。戦後復興と高度成長のためのダム建設で自分の生きる道を見出した旧国鉄バス車掌の物語で、映画とテレビドラマの原作になりました。筆者はこの書の中で、戦後のダム建設事情について小文を書いています。戦時中はすべてを戦時体制とするために電力は国家管理とされていました。敗戦後は、GHQマッカーサー指令により電源開発は民営化され、いわゆる九電力体制へと移行しました。オキュパイド・ジャパン時代の碍子が作られたのは、そうした移行期のことでした。↓
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*「GHQ司令官マッカーサーが帰国し、サンフランシスコで対日講和条約が調印された昭和26年、日本は独立国家として戦後への歩みを大きく踏み出した。しかし、その頃、国内は異常渇水と石炭不足のため、全国的な電力制限が続くなど、空前の電力不足に見舞われていた。この年、戦時中から国家管理の下に置かれていた電力業界はいわゆる『九電力体制』に再編成され、また、GHQの命令による新発電所建設禁止令も解除された。 そして、この電力不足を前にして、戦後の経済を復興し、発展への足がかりを得るためには、国家資金を大量に投入した大規模な電源開発を行うことが急務とされた。その目的のために、翌27年、水力発電を中心に電源開発を進めるいわゆる“水主火従”の方針が打ち出され、政府が株の大半を出資して電源開発株式会社が設立された」。(拙著「さくら道~国鉄バス車掌佐藤良二さんの生涯」<風媒社刊>より)
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★『1949年(昭和24年)の陶磁器輸出状況」という記事も「陶業タイムス」昭和25年1月30日発行の第71号に掲載されています。↓
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*これは、1949年(昭和24年)当時の輸出品がアイテムごとの割合の記録です。この年は4月に1ドル=450円だった為替ルートが【1ドル=360円】という固定相場制へと移行した年でした。それによれば、この年、食器類が65.3パーセント、置物類(ノベルティ)が22.3パーセント、タイルが7.5パーセント、碍子類が3.7パーセント、衛陶(便器)が1.2パーセントとなっていました。

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☆こうしたOJ製品は陶都・瀬戸が歩んだまぎれもない戦後史の証です。しかし、こうした歴史に真摯な目を向け、その記憶を記録するという仕事を瀬戸市の業界にも行政にも満足に見出すことができません。











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