瀬戸ノベルティ文化保存研究会・瀬戸ノベルティ倶楽部

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“これこそ、せともの”セトノベルティの魅力を紹介し、その技術継承に努める市民活動団体です。

瀬戸ノベルティ文化保存研究会 We are the Seto Novelty Culture Preservation Society, a citizens’organization in Seto City, Aichi Prefecture 、Japan◆瀬戸ノベルティに“最高の評価”!レース人形の最高峰・TK名古屋人形製陶所製「アン王女」が皇室に献上!★瀬戸から「ノベルティ」と「昭和の青春切符~集団就職の記録~」を『日本遺産』に!◆時を超えて香り立つ魅力・ノベルティこそ“瀬戸の華”!セト・ノベルティこそ「せともの」!【瀬戸ノベルティ倶楽部:The Seto Novelty Club〈office〉、Americans who love SETO NOVELTIES, your mail to us is deeply welcome. address :setonovelty_club@yahoo.jp】 写真などこのブログでの画像の無断使用は固くお断りします!

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ノベルティ絵付師の角谷信吉さん、死去。

2023年3月20日(月)  

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★ノベルティ絵付師の角谷信吉さんが亡くなりました。(享年89)


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(↑ノベルティ絵付師の故・角谷信吉さん)

*私たちは、あるノベルティ関係者からのご紹介により角谷信吉さんと知り合うご縁に恵まれ、かれこれ10年以上も交流を続け、瀬戸ノベルティの実際についていろいろ教えてもらってきました。今夏、私たちは信吉さんに教えて頂いてきたいろいろな知識を盛り込みながら瀬戸ノベルティについての本を出版します。


<ノベルティ絵付師、故・角谷信吉さんの履歴>
*昭和8年(1933)8月4日生まれ(小学校6年で終戦)
*父(石川県寺井町<九谷>出身)も絵付け師。
*15歳から絵付け、父を師匠にして見よう見まねで仕事を覚えた。(戦中は碍子製造に従事)
*瀬戸市のノベルティメーカー「博雲陶器」で絵付の仕事。(筆による絵付け、転写・吹きも)
*昭和35年(伊勢湾台風後)、兄の片腕として、自宅の工房で外注としての絵付け仕事を行う。
*妻の外美(そとみ)さんは75歳で没。

*いつも信吉さんは瀬戸市末広町商店街にある当会の活動拠点(瀬戸ノベルティ俱楽部)においで下さっていました。しかし、このところ姿をお見かけしないなあ…とスタッフとともに心配していました。「顔を見ないと私たちも心配だから…」、そういって私たちからも信吉さんに時々お顔を見せて下さいね、とお願いしていたのです。そして、「信吉さんが亡くなった」とたまたま知人からお聞きしたのです。

*「陶芸一本鎗」の瀬戸市の文化産業行政はノベルティの産業や文化をほとんど評価せず、それに携わってきた職人さんを紹介することなどはほとんどないように思われます。そうした行政批判をはっきりと口にする私たちと違い、信吉さん自身は自分ではそうした行政への不満を一切口にすることもなく、私たちに対しては、私たちが求めるいろいろな質問や依頼に喜んで瀬戸弁で応えてくれていました。角谷信吉さんは、私たちにとっては、瀬戸ノベルティの生産と継承を身を以て支えてきた「無名の職人さんたち」の一人であり、かけがえのない大切な先達でした。そんな角谷信吉さんを私たちなりに顕彰したい、そんな思いから私たちはこれまで角谷信吉さんを新聞などに時折取り上げてもらってきました。私たちの手元には、これまでの交流の中で撮影させて頂いたり、収集してきた写真を沢山残しています。

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*↑これは、ノベルティの絵付師・角谷信吉さんが絵付けを施した作品で、『にわとりカーニバル』と名づけたノベルティです。↓

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(↑ありし日の角谷信吉さん:2016年、当会撮影)

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*この白生地は廃業したノベルティメーカーから当会が譲り受けたものです。その白生地に角谷さんが、「夢のようなニワトリを作りたい」と、ありえない色のニワトリとして絵付けをした作品です。勿論非売品ですが、譲って欲しいと言う人が後を絶ちません。

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(↑昭和35年に建てたありし日の自宅の工房で:2014年4月1日当会撮影)
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(↑妻の外美(そとみ)さん(左端)もこの工房で職人とともに絵付けをしていた:2014年4月1日当会撮影)

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✲何気ない招き猫にも瀬戸の職人の優れた技が息づいている…そうしたことを教えてくれたのも角谷信吉さんでした。


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(↑2018年9月19日、当会撮影)

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✲ひげを見てください。

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✲このひげは一気に一筆で描き上げます。このように、一気に一筆で勢いのあるひげを描けるほどの技を持つ職人さんが近年いなくなってきている、と角谷さんは言っていました。


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✲「一気に描き上げないとこんな風にはできないんですよ。途中で筆をつなぐとその跡が見えるし、勢いがそがれるんです。何気ないようでも、職人の年季を重ねなければ、こんな風に自然に描けるようにはならないんですよ…」、ベテラン絵付け職人の角谷信吉さんはそう言っていたのです。

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✲こうしたひげは絵具(釉薬)の量も濃さも自然に上方向に流れ、勢いを矯めずに眉毛の位置までひ一息で描かれています。このような筆致は類い稀な職人技によってこそ可能なのです。ある招き猫専門館のネット画像を見ても、このように高くひげが跳ね上げられて描かれているような製品の画像はほとんど見当たりません。

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✲何気なく当たり前のように見えるこうした「招き猫特有のひげ」も長年の経験の積み重ねから生まれる習熟した技によってこそ描き出せる、角谷信吉さんはそう言っていたのです。ささやかなことかもしれません。しかし、こうした何気ない優れた無形の職人技の顕彰とその継承こそが今の陶都・瀬戸が問われている大切な課題なのではないか…、そう思わずにはおれません。

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   (↑角谷信吉さんが満80歳の時の絵付け↓)
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    (↑2014年10月26日撮影)

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◎◎◎2020年1月17日IMGP9547
(↑仲良しだったオキュパイド・ジャパン・コレクターズ・クラブの田中荘子さんと:2020年1月17日撮影)

◎◎◎2020年1月17日
(↑末広町商店街で食パンを買って帰るところ:2020年1月17日、当会代表の中村撮影)

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(↑ウルトラマン家族の瀬戸ノベルティ:角谷信吉さんから当会への寄贈品)

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この季節に思い出されるノベルティ「春の馬」、そして故栗本百合子さんのこと。

2023年3月18日(金)

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✦瀬戸市内にある拙宅の前、バス通り沿いのささやかな空き地に旧国鉄バス車掌・佐藤良二さんゆかりの荘川桜の山桜を一本植えてあります。太平洋と日本海を桜の道で飾ろうとした佐藤良二さん。その佐藤さんに「人の幸せのために人生を生きよ」と教えたのが奥美濃・白川郷の荘川桜でした。


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  (↑瀬戸ノベルティの本が生まれる部屋より:2023年3月17日)

✦その実生(みしょう)の山桜がソメイヨシノに先駆けて今年も花を咲かせてくれました。この山桜は良二さんの姉のテルさんが中村に寄贈してくれたものです。



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(佐藤良二さんゆかりの荘川桜の実生の山桜:2023年3月17日、中村撮影)

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☆☆この季節になるといつも思い出される一体のノベルティ、そして、思い出す一人の女性アーティストがいます。

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☆今は亡きインスタレーション・アーティストの故栗本百合子さん、享年64。彼女が当会に寄贈して下さった『春の馬』という名のノベルティです。それは、大手のあるノベルティバイヤーが販売を手がけた美しい馬のノベルティで『春の馬』("SPRINGTIME HORSE")というノベルティ製品です。


Lenox Rare Vintage 1987 Carosan Legacy Series Retired Excellent-12

*↑24カラットの金彩も施されている美しい飾り馬。山国製陶、または丸利商会製のノベルティであったかと思います。

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*1987年に作られたこの「春の馬」という名の瀬戸ノベルティ。当瀬戸ノベルティ文化保存研究会にとって、栗本百合子さんから頂いたこのノベルティは今は亡きインスタレーション・アーティストであった栗本さんを偲ぶ唯一の形見となっている宝物なのです。この製品は1987年に作られ、瀬戸のノベルティ産業が最後の光芒を放っていた最盛期の頃の製品です。これ以後、瀬戸のノベルティメーカーは激しい円高により次々に倒産や転廃業への道を辿っていきました。栗本百合子さんが何故このノベルティを持っておられたのか、また、何故当会へ寄贈して下さったのか、…そうしたことを詳しく聞かせて頂く機会は栗本さんの死によって永遠に失われました。

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★故・栗本百合子さんは「インスタレーション・アーティスト(空間芸術家)」で、2017年12月、ガンのため64歳で亡くなられました。当会は栗本さんを敬愛していました。栗本さんとの出会いがなければ、ひょっとしたら私たち瀬戸ノベルティ文化保存研究会の活動も生まれなかったかもしれません。

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Lenox Rare Vintage 1987 Carousel Hoagacy Series Retired Excellent- 11日

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(↑ありし日の栗本百合子さん:2017年3月16日 当会代表・中村撮影)

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*↑1987年に作られたこの「春の馬」は、当会にとって栗本さんを偲ぶ大切な形見なのです。

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(↑故栗本百合子さん:2017年3月16日 当会代表・中村撮影)

☆日に日に窯屋が減り続け、「陶都」の名が薄れていく愛知県瀬戸市。栗本百合子さんは、安易なハコモノ行政に拠るのではなく、「町の中でこそ陶都の伝統を受け継いでいくべきだ」という思いを寡黙な空間芸術(インスタレーション)という手法で表現していたアーティストでした。当会は、2001年に瀬戸市陣屋の「愛知製陶所」に於いて『秋日和・窯工房コンサート』を主催しました。翌2002年、中村は同社内に『芸術家横丁』という市民活動団体を立ち上げました。その活動の中で栗本百合子さんと出会ったのです。

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(↑この道の奥、突き当りにあったかつての愛知製陶所"サンプル・ショールーム")

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*愛知製陶所には輸出品のサンプルを沢山収蔵する一棟の古い建物がありました。当時、その建物はひどく荒れていました。栗本さんは2003年にその建物と出会い、その建物と場所が同社にとっても、また陶都・瀬戸市にとってもとても大切で、また大変魅力的な場所であることを直感しました。栗本さんはその建物に芸術的・文化的価値視点から注目し、"サンプル・ショールーム"として整備することを思いつきました。2006年にその構想を"sample showroom -the sample"と題して、整備作業に着手したのです。

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(↑荒れていた当初の「サンプルルーム」の様子 <栗本さんの仕事記録集から>↓)
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(↑栗本さんの手で美しく甦った愛知製陶所の"サンプル・ショールーム")

*栗本さんの取り組みとお話から当会が理解したことは次のようなことであったと思います。
「愛知製陶所の場合で言えば、この会社は、高い技術で作ったいろいろな製品を世界中に送り届け、他の瀬戸の窯屋さんと同じように輸出で栄えました。その美しい製品はその後の円高などによって輸出が途絶えたことにより、在庫やサンプルはこの建物の中で長い年月を厚いホコリの中で埋もれてきました。この建物の中で、陶都窯業千年余の歴史の中で瀬戸に最大の繁栄をもたらした誇り高い輸出陶磁産業の歴史や高い製造技術、豊かな物語を秘めた美しい文物や知性の香りが眠ってきました。私(栗本)は、そのホコリを取り除き、傷をなおし、塗料を塗って再び美しく装い直し、埋もれてしまっているこの会社とこの町の歴史や高い文化、ものづくりの証、職人の誇りといったものをもう一度光り輝かせてあげたいと思っているのです。私のような空間芸術家の仕事というのは、もともとあるものごとに手を加えることで、こうした建物や空間の中に埋もれホコリにまみれて眠ってしまっている美しさや物語がもう一度目覚め始めるようにお手伝いをするだけなんです。ですから、空間芸術というアートは、私たちアーティストが主役の芸術というのではなく、私たちはただ単に脇役の産婆役という役柄なんですよ。こうした場所は整備が済んだ後のひとときは私たちアーティストのものになりますが、もともと他の方の所有物ですから、企画が終わったら、また元通りにしてお返しするんです…」。

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*当会は、栗本さんが愛知製陶所の"サンプル・ショールーム"の最後の展示会を行われた2017年3月、その姿と思いを動画ビデオと写真とによって記録させて頂きました。

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(↑栗本さんの仕事によって甦った愛知製陶所"サンプル・ショールーム"↓)

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(↑ヨーロッパの貴族の館で使われていたという庭園文化の一つ、"ラバボー"と呼ばれる手洗い陶磁器)

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(↑闘病中の身を押して"サンプル・ショールーム"に来られた栗本百合子さんの遺影:当会の中村が撮影)

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(↑アーティスト・浅田泰子さんの絵を飾り、この建物に宿る光彩と眠る時の流れを際立たせたい…、そう願った栗本さんの仕掛け↓)

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*↑栗本百合子さんが心血を注いで甦らせた愛知製陶所"サンプル・ショールーム"は2018年に解体されました。

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*↑愛知製陶所の工場施設と"サンプル・ショールーム"のすべてが消えて、分譲住宅に変りました。

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(↑栗本百合子さんの遺影・2017年3月7日:当会代表・中村が撮影)

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(↑栗本百合子さん最後の遺影:2017年3月19日 中村が撮影)

☆このブログの初めに掲げたのは栗本さんが生前、当会に寄贈して下った飾り馬のノベルティで、"SPRINGTIME HORSE"『春の馬』という名の瀬戸ノベルティでした。↓

LENOX 1987 CLASSIC aGTIME HORSE CERAMIC FIGURINE - 3

*『春の馬』というこの瀬戸ノベルティは1987年の製品で、瀬戸ノベルティ業界が最盛期の頃の製品でした。これ以後、激しい円高により瀬戸のノベルティメーカーは次々と倒産や転廃業への道を辿っていきました。栗本さんが当会に寄贈して下さったこの製品は瀬戸ノベルティが最後の光彩を放った頃の製品だったのです。この飾り馬のノベルティは大変美しく、また売れ行きもよかったためか、このシリーズのラインとして異なるヴァリエーションの飾り馬が続けて作られていきました。しかし、とはいっても、瀬戸のノベルティメーカーがこのような製品を作ることができなくなってからは、バイヤーは生産拠点を瀬戸市からアジアへ移し、アジア各地で『春の馬』シリーズではなく主に「クリスマスの飾り馬シリーズ」として作られ続けていったそうです。

台湾製1991年Lenox Carousel Western Pinaurine Equestrian Tribal Merry Go Round-1
(↑1991年・台湾製)

タイ製2001Rare Lenox Spria Carousel Horse 2001 Mint Condition Porcelain Figurine Coa 6
(↑2001年・タイ製)

2005 LENOXLIMITED EDITIONsaUSELaMINT CONDITION
(↑2005年・アジア製)

LENOX 2017 CHRISTMAS CAROaORSE FIGURINE, COA, NIB-1
(↑2017年・アジア製)

Lenox 2018 Christmas Cazudge Shop Figurine #878315 New-1
(↑2018・アジア製)

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ノベルティ絵付師の角谷信吉さん、死去。

2023年3月13日(月)  

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★ノベルティ絵付師の角谷信吉さんが亡くなりました。(享年89)


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(↑ノベルティ絵付師の故・角谷信吉さん)

*私たちは、あるノベルティ関係者からのご紹介により角谷信吉さんと知り合うご縁に恵まれ、かれこれ10年以上も交流を続け、瀬戸ノベルティの実際についていろいろ教えてもらってきました。今、私たちは信吉さんに教えて頂いてきたいろいろな知識を盛り込みながら瀬戸ノベルティについての本の出版を目指しているところです。


<ノベルティ絵付師、故・角谷信吉さんの履歴>
*昭和8年(1933)8月4日生まれ(小学校6年で終戦)
*父(石川県寺井町<久谷>出身)も絵付け師。
*15歳から絵付け、父を師匠にして見よう見まねで仕事を覚えた。(戦中は碍子製造に従事)
*瀬戸市のノベルティメーカー「博雲陶器」で絵付の仕事。(筆による絵付け、転写・吹きも)
*昭和35年(伊勢湾台風後)、兄の片腕として、自宅の工房で外注としての絵付け仕事を行う。
*妻の外美(そとみ)さんは75歳で没。

*いつも信吉さんは瀬戸市末広町商店街にある当会の活動拠点(瀬戸ノベルティ俱楽部)においで下さっていました。しかし、このところ姿をお見かけしないなあ…とスタッフとともに心配していました。「顔を見ないと私たちも心配だから…」、そういって私たちからも信吉さんに時々お顔を見せて下さいね、とお願いしていたのです。そして最近、「信吉さんが亡くなった」とたまたま知人からお聞きしたのです。

*「陶芸一本鎗」の瀬戸市の文化産業行政はノベルティの産業や文化をほとんど評価せず、それに携わってきた職人さんを紹介することなどはほとんどないように思われます。そうした行政批判をはっきりと口にする私たちと違い、信吉さん自身は自分ではそうした行政への不満を一切口にすることもなく、私たちに対しては、私たちが求めるいろいろな質問や依頼に喜んで瀬戸弁で応えてくれていました。角谷信吉さんは、私たちにとっては、瀬戸ノベルティの生産と継承を身を以て支えてきた「無名の職人さんたち」の一人であり、かけがえのない大切な先達でした。そんな角谷信吉さんを私たちなりに顕彰したい、そんな思いから私たちはこれまで角谷信吉さんを新聞などに時折取り上げてもらってきました。私たちの手元には、これまでの交流の中で撮影させて頂いたり、収集してきた写真を沢山残しています。

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*↑これは、ノベルティの絵付師・角谷信吉さんが絵付けを施した作品で、『にわとりカーニバル』と名づけたノベルティです。↓

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(↑ありし日の角谷信吉さん:2016年、当会撮影)

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*この白生地は廃業したノベルティメーカーから当会が譲り受けたものです。その白生地に角谷さんが、「夢のようなニワトリを作りたい」と、ありえない色のニワトリとして絵付けをした作品です。勿論非売品ですが、譲って欲しいと言う人が後を絶ちません。

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(↑昭和35年に建てたありし日の自宅の工房で:2014年4月1日当会撮影)
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(↑妻の外美(そとみ)さん(左端)もこの工房で職人とともに絵付けをしていた:2014年4月1日当会撮影)

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✲何気ない招き猫にも瀬戸の職人の優れた技が息づいている…そうしたことを教えてくれたのも角谷信吉さんでした。


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(↑2018年9月19日、当会撮影)

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✲ひげを見てください。

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✲このひげは一気に一筆で描き上げます。このように、一気に一筆で勢いのあるひげを描けるほどの技を持つ職人さんが近年いなくなってきている、と角谷さんは言っていました。


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✲「一気に描き上げないとこんな風にはできないんですよ。途中で筆をつなぐとその跡が見えるし、勢いがそがれるんです。何気ないようでも、職人の年季を重ねなければ、こんな風に自然に描けるようにはならないんですよ…」、ベテラン絵付け職人の角谷信吉さんはそう言っていたのです。

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✲こうしたひげは絵具(釉薬)の量も濃さも自然に上方向に流れ、勢いを矯めずに眉毛の位置までひ一息で描かれています。このような筆致は類い稀な職人技によってこそ可能なのです。ある招き猫専門館のネット画像を見ても、このように高くひげが跳ね上げられて描かれているような製品の画像はほとんど見当たりません。

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✲何気なく当たり前のように見えるこうした「招き猫特有のひげ」も長年の経験の積み重ねから生まれる習熟した技によってこそ描き出せる、角谷信吉さんはそう言っていたのです。ささやかなことかもしれません。しかし、こうした何気ない優れた無形の職人技の顕彰とその継承こそが今の陶都・瀬戸が問われている大切な課題なのではないか…、そう思わずにはおれません。

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   (↑角谷信吉さんが満80歳の時の絵付け↓)
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    (↑2014年10月26日撮影)

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(↑仲良しだったオキュパイド・ジャパン・コレクターズ・クラブの田中荘子さんと:2020年1月17日撮影)

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(↑末広町商店街で食パンを買って帰るところ:2020年1月17日、当会代表の中村撮影)

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(↑ウルトラマン家族の瀬戸ノベルティ:角谷信吉さんから当会への寄贈品)

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当会の活動が大学の卒業論文になりました。

2023年 3月7日(火)

★当会の活動が大学の卒業論文に取り上げられました。

◆当「瀬戸ノベルティ文化保存研究会」のささやかな活動が瀬戸市在住のある社会人大学生の目に留まり、このほどその人の卒業論文で紹介されました。その卒論の表題は『陶都文芸復興への架け橋となるか-瀬戸ノベルティ文化保存研究会の活動-』。
瀬戸固有の窯業資源である瀬戸ノベルティの文化的特質、その盛衰の鍵となってきた「デザインのオリジナリティ」をめぐる課題、そしてノベルティ産業の文化的再生の可能性に焦点を当てる貴重な論考となっています。
☆そこで、瀬戸ノベルティをめぐるデザインの模倣・剽窃問題が表面化して今年でちょうど70年になるドイツ起源の「ハンメル(フンメル)人形」について、瀬戸ノベルティ産業の創業者で老舗の丸山陶器製の場合を例に振り返ります。

<意匠デザインをめぐる文化摩擦・瀬戸ノベルティの"宿命的悲哀"・ハンメル人形の場合>

☆当会は、いろいろなノベルティメーカーからハンメル人形を収集しています。ハンメル(フンメル)人形はノベルティ産業の草創期から発展期にかけて瀬戸の多くのメーカーが製作していた人気アイテムで、その「意匠デザイン」をめぐる文化摩擦をも惹起してきた特異なアイテムなのです。


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*これらは敗戦後まもなくの頃、GHQによる占領下の時代に作られたoccupied japan(オキュパイド・ジャパン)製品か、あるいはその直後の昭和20年代後半から昭和30年代初期の製品であろうと思われます。

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*70年近くホコリにまみれたハンメル人形およそ300体が木箱の中から発見されました。

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*ハンメル(フンメル)人形は「半磁器」製品の代表的なノベルティです。

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*70年あまり積もったホコリを洗い流して撮影を行いました。

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*「半磁器」製品は磁器とハクウンの中間の生地(素地)です。ハクウンのような貫入(かんにゅう・一種のひび割れ)が入ることが特徴であるため、その貫入がなんとも言えない風合いを感じさせます。

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*↑日本陶磁器輸出組合が平成11年(1999年)度末の解散にあたって刊行した『日本陶磁器輸出47年史』 にハンメル人形について次のように紹介されています。「ハンメル(HUMMEL)人形」というのは、ドイツの修道女ハンメルが少年少女向けに書いた絵本に描かれた少年少女の風貌を人形に作ったものである」。また、別の情報源によれば、「スペインのリヤドロと並び、世界的に有名な陶磁器人形ブランド。ゴーベル社<ゲーベル社(Goebel)> により"M.I.Hummel" の名前で製品のデザインと開発、販売を行ってきたが、一時衰退、2008年中にフンメル人形の生産を中止すると発表した。現在は、新たにHummel& Manufaktur GmbHが"M.I.Hummel"ブランドの製造権を引き継ぎ、 日本では株式会社アヅマが正規代理店として百貨店を中心に販売を展開している」とあります。
*ハンメル人形は世界で最もよく知られたノベルティの名門人気アイテムです。その人気アイテムを瀬戸市で最初に作ったのが瀬戸ノベルティメーカーの嚆矢で名門の「丸山陶器」でした。

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(丸山陶器社屋外観:左側の木造家屋は社主の旧住居・右側の白い建物は事務所棟 <2018年10/30当会撮影>)

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(↑アーナルト社が扱った丸山陶器製「ハンメル人形」を紹介したアメリカの雑誌の一例:1960年6月号↓)

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*↑この製品はあるノベルティメーカーの廃業に伴ない、当会が同社から入手した「本物真正のハンメル人形」です。廃業したそのメーカーが製作見本サンプルとして収集していた製品です。

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*↑これは、<The Gift & Art Buyer>というアメリカで出版されていた雑誌の1963年(昭和38年)8月号に掲載されたハンメル人形の広告記事です。↓この記事によれば、

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*西ドイツのバーバリア地方にある専用工場で作られ、

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*製作者はGeobel(ゴーベル・ゲーベル)社。その製品が同社の真正の製品であるか否かは裏印を見ればわかります。製作者のGeobel社が最も大切にしていたのが"authenticity"でした。"authenticity"というのは、「正統性・出所の正しさ・真正さ」ということで、「まぎれもなく本物の製品であることの証」を意味します。この広告には"Authentic Hummel figurines are identified by the indented M.I .Hummel on the base of every piece"(真正のハンメル人形はそれぞれ全ての製品に"M.I .Hummel"という押印が施されているもの)とあり、正統な押印の明示により厳格にその著作権が主張されていました。製品に"M.I .Hummel"というこの押印(indented mark)がなければまずすべて「偽物、まがい物」ということになっていたのです。

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(↑製品の台座に刻まれた"M.I .Hummel"という押印)

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*また、どの製品にもハンメル独特のトレードマーク、いわゆる「蜜蜂マーク」が付けられているはずである、というのです。本物の製品であるならば、正真正銘のハンメルであること("authenticity")を示すマークが必ず付けられているのです。↓

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*この、いわゆる「蜜蜂マーク」が本物で正真正銘のハンメルである正統性("authenticity")を示すトレードマークでした。
当会はこの製品の製作時期がこれまで分かりませんでしたが、ようやく分かりました。「丸山陶器のハンメル人形」を見つめるこのリポートの行き着く先に、実は「瀬戸ノベルティの宿命的悲哀・デザインの模倣」という残念な結末が見えてくるのです。

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*↑この画像はアメリカで出版されていた家庭雑誌1960年11月号に掲載されたハンメルの広告で、当会が収集しているハンメル製品と同種の製品の広告です。↓

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(↑当会の収集品)

*この広告記事と出会ったことで、当会の収集品であるこの製品が1960年(昭和35)の製品であることが分かりました。

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*もう一体のハンメルの人形をご紹介しましょう。

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*少年が木の枝に座っているノベルティで、青い鳥が少年に視線を送っています。この製品についての広告もありました。《House Beautiful》というアメリカの生活雑誌の1960年11月号に掲載された以下の広告です。↓

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*この広告記事にも、毅然として「このマークこそ、世界で最もよく知られ、最も権威ある正真正銘の製品であることを示すマークである」と銘打たれています。当時、Goebel(ゴーベル・ゲーベル)社が≪類似品≫に悩まされていたであろうことが窺い知れるのです。実は、Goebel社のその悩みと瀬戸ノベルティとは密接な関わりがあったのです。

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*この丸山陶器製のノベルティは1960年11月号に掲載されたアメリカの雑誌広告に載っていたハンメル人形と同種の製品です。

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*この丸山陶器製ノベルティの押印はどうなっているのでしょうか。↓

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*製品の底面に"IMPORT"という押印が焼き付けられています。言うまでもなく「輸入品」という意味です。これは、例えば、この丸山陶器製のノベルティを買う人がアメリカ人であるとすれば、メーカーの丸山陶器側からすればアメリカへの「輸出品(EXPORT)」ということになりますが、アメリカ人にとっては「輸入品("IMPORT")」ということになります。製作著作権者であるGeobel(ゴーベル・ゲーベル)社側からすれば、「丸山陶器製であろうと他の瀬戸ノベルティメーカーの製品であろうと、ハンメル人形によく似てはいるものの、「ハンメル人形ではない"似非品"である」ということになり、Goebel社側からすれば丸山陶器製であっても結局「マガイモノ」「ニセモノ」の製品ということになります。もし、その「ハンメル人形によく似た瀬戸製の製品」の出来がよければよい程、それは誠に鬱陶(うっとう)しく、面倒きわまりない、そして許しがたい「マガイモノ」ということになるのです。その製品が「瀬戸ノベルティのパイオニアであった名門の丸山陶器が作った最高級品である」と瀬戸の窯業界や日本国内で評価されたとしても、所詮は「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」であり、結局、Goebel社側にしてみれば、「似て非なるもの」、つまり、似非(えせ)であり、「にせもの」にすぎません。「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」は、どこまで行ってもGoebel社側からは"authenticity"は得られず、「にせもの」「模倣物」というそしりは免れません。私たち瀬戸市民にとってみれば、それは深刻味を帯びてきます。

*世界的な人気アイテムであるハンメル人形の生産を瀬戸のノベルティメーカーに働きかけたのはアメリカなど外国の一部のバイヤー(購入者・発注者)であり、その代理人である日本の商社、あるいは、日本に支社を持つ外国の商社の発注によるものでした。「ハンメル人形の"authenticity"とは何か」を百も承知のはずのそうしたバイヤーや商社は、「ハンメル人形」ではなく、「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」の納入をめぐる商取引を丸山陶器をはじめとする瀬戸のノベルティメーカー各社と行っていたのです。Goebel社側はそれを「意図的な作為」、あるいは「未必の故意」と受けとめていたかもしれません。いずれにしても、Goebel社側は、「瀬戸のノベルティメーカーがバイヤーや商社ぐるみで侵していた商モラルの欠如」と見ていたのです。瀬戸のノベルティメーカーと製作者・著作権者(製作権所有者)のドイツのGoebel社側との間には埋めがたいギャップがあったのです。

☆当会は2020年夏、「丸山陶器製の"ハンメル"製品」を大量に掘り起こし、撮影する機会に恵まれました。


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*敗戦後まもなくのいわゆる"occupied japan(オキュパイド・ジャパン・占領下日本製)"時代の製品が多く含まれた製品です。70年以上も「丸山陶器」の社屋の深くで眠り続けてきた、ホコリまみれのハンメル人形、およそ300体を当会は木箱の中から発見したのです。

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*「丸山陶器」は言うまでもなく、瀬戸ノベルティの創業者で、瀬戸ノベルティの至宝を作り続けてきたメーカーでしたが、今はすべての生産を終了しています。当会だけがその活動姿勢を認められ、同社の信頼を受けて唯一の渉外代理者となっています。この「丸山陶器」を見ることなくして瀬戸ノベルティを語ることはできないのです。

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*同社のハンメル人形も、典型的な「半磁器」製の瀬戸ノベルティです。

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(↑丸山陶器の半箱)
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*半箱の中で70年以上も、ホコリに埋もれて眠り続けてきた丸山陶器製の「ハンメル(風)人形」。これらのノベルティを見つめてみると、"陶都・瀬戸の宿命的悲哀"が透かし見えてくるのです。

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ペア製品のタグ

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*いわゆる「ハンメル人形」(正確には「ハンメル風人形」)は日本では瀬戸市でのみ作られてきました。丸山陶器のほか、日光陶器など何社かのノベルティメーカーが競って「ハンメル風人形」を作ってきましたが、そうした「瀬戸製ハンメル人形」の中でも「丸山陶器製のハンメル人形」は最高級のハンメル人形である、と評価されてきました。

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*さて、丸山陶器製の「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」の押印には他にどんなものがあるでしょうか。

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*これは"made in occupied japan"「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」、「占領下日本製」の製品です。今、アメリカにはこうした「占領下の瀬戸市で作られた『ハンメル人形』、正確には、「ハンメル風人形」(あるいは「ハンメル調人形」)が沢山残されているのです。そのほか、

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(↑JAPAN・SAMPLEの文字を焼き付けたもの)

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(↑JAPAN、あるいはMADE IN JAPANのシールを貼ったもの↓)
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(↑不思議なマークが焼き付けられた製品)
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(↑不思議なマークの焼き付けに加えてサディック社・アンドレアのマークシールを貼ったもの)

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(↑当方はこれに関し、まったく知識を持ち合わせていません)

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(↑"Harvan"というシールが貼られたもの)

*いずれにしても、丸山陶器など瀬戸のノベルティメーカー各社はこうした世界的な人気アイテムを大量に生産していたのです。しかし、このデザインの"authenticity"(「正統性・出所の正しさ・真正さ」)をめぐる彼我のギャップは戦後まもなくから国際問題になっていました。

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*日本陶磁器輸出組合が平成11年(1999)度末の解散にあたって刊行した『日本陶磁器輸出47年史』 には、ノベルティなどのデザインをめぐる摩擦が次のように記録されています。
*まずは英国との関係です。
 「第二次世界大戦後、英国より、陶磁器の意匠模倣についてしばしば抗議が行われ、これに対し業界として反論ないし弁明と通商産業省の輸出貿易管理令等による措置が行われたが…、一方、日本政府(吉田内閣)は、日本の意匠模倣問題が講和条約批准の際、英国議会で問題となったことなど、両国友好関係に悪影響を及ぼすのを恐れ、問題の円満解決を図るため、英国陶業界代表の来朝を計画し、英国陶業連盟理事ウエントワース・シールズ氏招聘による日英陶業会談の開催となった」。
*また、ドイツのハンメル問題についても次のように書かれています。
 「…昭和28年(1953)秋頃、当組合員数社に対して、ハンメル人形製作権所有者と称する西独のゲーベル商会の弁護士により抗議が行われ、当組合では先方の主張を照会した処、昭和29年(1954)8月24日、正式に意匠の模倣(問題)の申し入れがあった。その後、折衝を重ね、(イ)ハンメルの字句を使わぬこと、(ロ)模倣と見做(みな)されるものの製作輸出をしないこと、として大体諒解した。次いで、昭和30年(1955)5月、ゲーベル商会主フランツ・ゲーベル氏が来朝し、5月20日、当組合関係者と、また翌21日、当組合ノベルティ部会と懇談し、ゲーベル氏の主張の範囲は明確となったが、同氏の全製作品は同氏帰国後、送付を受けることになった。こうして、翌昭和31年(1956)1月に至りゲーベル氏より見本写真の送付を受け、同氏と種々折衝の結果、我が業界としても模倣防止措置を講ずることとなった」。

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*↑丸山陶器の外観(2018年10月30日当会撮影)です。右が現在の事務所棟で、左が創業者の山城柳平が建てた居宅。右の現在の事務所棟とともに1932年(昭和7年)に建てられた建物ですが、左の居宅は老朽化のため、すでに解体されており、今はもうありません。当会は、陶都・瀬戸を代表するこの歴史的な建物の詳細な解体の一部始終をビデオと写真とで記録しました。

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(↑創業者の山城柳平が建て、2代目龍蔵も住んだ居宅:2016年 1月31日、当会撮影)
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(↑木造の居宅が解体された後の2020年3月27日、当会撮影)

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(↑現在の事務所棟、当会撮影↓)
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*瀬戸ノベルティを創始し、瀬戸ノベルティのパイオニア企業であった丸山陶器。その百余年にわたるノベルティ生産に幕を引いたのが4代目社主(直系としては3代目社主)の故・加藤豊さんでした。瀬戸ノベルティ研究の第一人者で前名古屋学院大学教授の十名直喜(とな・なおき)さんは、その著「現代産業に生きる技~『型』と創造のダイナミズム~』(勁草書房刊)の中で、加藤豊さんについて次のように書いておられます。

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(勁草<けいそう>書房刊)
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 「瀬戸のノベルティ、中でも丸山陶器の人形の品質と技術を国際的・歴史的にどう評価すべきかについて、加藤豊氏と熱い議論を交わした。『マイセン人形と瀬戸の人形では、製品の質もマーケットも全く異なる』と加藤豊氏は力説する。マイセンは東西ドイツの統合までは国営で、フランスのリモージュ、オランダのロイヤル・コペンハーゲンでも公的な補助がなされているようである。マイセン人形はほとんど手起こしで、小さな人形でもずしりと重い。『うち(丸山陶器)も、よくここまでやったと思う。瀬戸の他社に比べて、一頭抜きん出た水準まで到達したが、マイセンと比較できるところまではとても行きませんでした』と述懐する。
 さらにブランド戦略については、『当社としては、ブランド化の意図はありませんでした。仮にそれを指向したとしても、何世代にもわたる時空が必要とされることであったと思います』と述べる。米国をはじめとする市場では、売場、価格帯、購買層などがまったく違う。宝飾品としてのマイセン人形は、4インチ(10cm)の小物でも数万円し、大形人形となると数百万円に上る。丸山陶器の人形は宝石店には置かれず、一部の骨董店にはあったものの、ヨーロッパ製と称して置かれていたのではないかと推測される。ギフトショップやデパートのギフト売場が主で、価格はマイセン人形の1割にも満たなかった。こうした大きな格差は、品質もさることながら地域ブランド力などによって増幅されていたようである。例えば、スペインのリャドロの場合、酸化による素地(きじ)焼成で、絵付けも上絵付けではなく下絵付けに拠つている。リャドロといえども上絵の難しいものはほとんどやっていない。また、素人にはわかりにくい所でのコストダウン(手抜き)もしている。
 一方、丸山陶器の人形は、生素地(なまきじ)ですべてのパーツを組み立て、焼きあがったものにすみずみまで丹念に上絵付けする。品質的にはリャドロの製品が明らかに見劣りするのに、価格は丸山陶器の人形の何倍もするのである。その差はどこにあるのか。加藤豊氏は、オリジナルデザインに基づく(ヨーロッパという)地域ブランドにあったのではないかと見る。丸山陶器のデザインは基本的にはほとんどバイヤー頼みであった。これは遠く離れた異文化の地で西洋人形を作ることの文化的な難しさが絡んでいたと見られる。動物、鳥、花など他の置物や食器に比べて、人形はまさに歴史や宗教などを含む文化の塊である。欧米の文化、風俗習慣に根ざさない瀬戸、丸山陶器の西洋人形づくりに宿命的な深い困難があったといえる」。
  (十名直喜著「現代産業に生きる技~『型』と創造のダイナミズム~』勁草書房刊より)

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(瀬戸ノベルティアーケードin 末広町:2010年9月、当会主催:撮影) 
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(空き店舗に丸山陶器のノベルティを沢山飾りました)
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(右・故・加藤豊さん)
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(↑2010年9月、丸山陶器4代目社長・加藤豊氏の遺影:当会代表・中村が撮影
*加藤豊さんはこの撮影の数日後に急逝されました。当会代表が撮影したこれらの写真が加藤豊さんの遺影となりました。

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(↑バイヤーのサディック氏を長良川の鵜飼いでもてなす丸山陶器2代目社長・龍蔵さん:左端)

*瀬戸ノベルティは、第一次世界大戦の勃発でドイツからの輸入が途絶えたことにより、『マイセン人形の代替品』として盛んに瀬戸市で作られ、主に米国に輸出されました。その瀬戸ノベルティ産業の嚆矢(こうし・創始社)が「丸山陶器」で、丸山陶器を初め瀬戸ノベルティの多くのメーカーが盛んにドイツのハンメル風人形を生産しました。そうした経緯から、丸山陶器の製品を筆頭に、『瀬戸ノベルティはコピーだ、模倣だ』、という人も少なくありませんでした。
 *確かに瀬戸ノベルティは初め、ドレスデン人形やハンメル人形などヨーロッパ製品の模倣品、代替品として作られ、安価であることと出来栄えがよいために米国で受け入れられました。とりわけ移民国家である米国の中で中・低収入階層の人たちは、本当は憧れのマイセン磁器が欲しいが、それは高価で手が届かないため、日本製の製品で代替するということで、瀬戸ノベルティが盛んにアメリカに輸出されていったのです。そのようにまず、瀬戸ノベルティは代替品・模倣品・二級品として登場しましたし、名古屋学院大学元教授の十名直喜さんによれば、「加藤豊氏(丸山陶器4代目社長)も、瀬戸ノベルティのマイセンは、本場のマイセン人形に比肩するまでにはとても至っておらず、代替品としてもなお開きが大きいと見て」いました。しかし、その一方で、「戦後に入ってからの瀬戸ノベルティはその製法の複雑多岐にわたる製造技術の進歩から独自な世界を切り拓いてきたという独自な側面に注目する見方」もあります。瀬戸市の現文化課課長の服部文孝さんも、「1960~70年代にはヨーロッパの模倣から脱し、セト・ノベルティとして自立し始めていました。各メーカーが、それぞれ相手先によって独自の特色を出しながら、白雲(ハクウン)素地の製品や単体の鳥や花、精巧な造形・絵付けなど多種多様な製品を作り出すようになったのです」と述べています。
 *とりわけ瀬戸ノベルティを創始し、瀬戸ノベルティのパイオニア企業であった丸山陶器の場合、その技術力の高さ故にオリジナルデザインを目指そうとしても十分に果たせなかった故加藤豊さんの無念さは計り知れないものであったろうと思われてなりません。こうした「ハンメル人形」の場合のように、ノベルティデザインのオリジナリティをめぐる問題は、瀬戸ノベルティがたどった陶都・瀬戸の宿命的悲哀を象徴的に物語るものであろうと言わざるをえないのです。
 *大局的にみれば、瀬戸ノベルティはようやく独自な瀬戸ブランドづくりの段階に入っていましたが、その瀬戸ブランドづくりには乗り越えなければならない課題も少なくなく、地域を挙げて取り組むには至らないまま、1980年代後半以降の急激な円高の波に飲み込まれていったのです。 (参考:十名直喜著『現代産業に生きる技~『型』と創造のダイナミズム~』 勁草書房刊)

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(↑アーナルト社が扱った丸山陶器製の『ハンメル風人形』:アメリカの雑誌:1960年6月号)

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(↑居宅解体の記録作業の中で当会が発見した丸山陶器の提灯↓)
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◆このほど、社会人大学生が当会の活動をテーマにしてまとめられたこの卒業論文『陶都文芸復興への架け橋となるか-瀬戸ノベルティ文化保存研究会の活動-』は、当会の活動とその可能性に触れて次のように述べています。
 「研究会(瀬戸ノベルティ文化保存研究会)には広く豊かな交流による『ユーザー中心主義』、パラダイム転換を誘導する『デザイン主導主義』といったデザイン思考が認められ、ノベルティだけではなく、文化、芸術、産業全般に影響を及ぼす可能性が見えてきた。戦後日本の復興に貢献した瀬戸ノベルティであるが、壊滅からのトラウマは現在もこの地方に影を落としている。このトラウマを払拭し、陶都文芸復興への架け橋となることが研究会に期待される」。 
 



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≫ EDIT

「甘いイチゴのショートケーキ」にまつわる瀬戸ノベルティ・再掲

2023年3月5日(日)<再掲>

☆甘いイチゴのショートケーキ(Strawberry Shortcake)にまつわる瀬戸ノベルティをご紹介します。題して「真心の<感染>~『ケシの子人形』の祈り・” Barbi Sargent(バービ・サージェント)の世界~」。イチゴのショートケーキによって人生を切り拓いてきたという女性アーティストの物語です。

Sweetness - Wikipedia

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☆あの黒柳徹子さんの髪形を思い起こさせられることから当会のスタッフは、このキャラクターのノベルティを「徹子ちゃん人形」と呼んでいます。


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(↑” Barbi Sargent”の絵画作品による瀬戸ノベルティ:当会の収集品↓)

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*このノベルティ人形が黒髪の少女であることから、当会は初め、このノベルティは日本人アーティスの作品ではないかと思っていました。しかし、そうではなく、実際の原作者はBarbi Sargent(バービ・サージェント)というアメリカ人女性でした。

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(↑Barbi Sargent<バービ・サージェント>)

*Barbi Sargent(バービ・サージェント)は、「ストロベリー・ショート・ケーキ」というキャラクターのオリジナルクリエイター・デザイナーで、彼女はAmerican Greetings社(アメリカングリーティングカード社)のフリーランスアーティストとして契約していました。この「ストロベリー・ショート・ケーキ」というキャラクターはアメリカングリーティング社のローレル・バレンタインデー・グリーティングカードとして初めて登場しました。当時、このキャラクターは単に「デイジーガール( Girl with a Daisy )」と呼ばれ、イチゴが印刷されたボンネット帽子を身に着け、デイジー(Daisy・ひなぎく)を手にしたかわいい女の子の絵画作品でした。アメリカングリーティング社スタッフのアートディレクター、レックス・コナーズは、このカードの人気は高く、「その絶大な人気の秘密はイチゴである」と見抜いていました。

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*ある評伝によれば、Barbi Sargent(バービ・サージェント)の履歴(History)は次のようなものです。
フリーランスのアーティスト、バービ・サージェントがアメリカングリーティング社のために「ストロベリー・ショート・ケーキ」のキャラクターを初めて創作したのは1973年のことであった。そのキャラクターは多くの人々から高い人気を集め、沢山のグリーティングカードに採用された。

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(↑Barbi Sargent”が描いたストロベリーガールデザインのトランプカード↓)
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*「ストロベリー・ショート・ケーキ」のキャラクターの人気の成功は1980年頃までにアーティスとしてのバービ・サージェントの地位をを不動のものにした。「ストロベリー・ショート・ケーキ」ブランドは、人形、オモチャ、その他いろいろなグッズとして製品化されていったし、「ストロベリー・ショート・ケーキ」の仲間のキャラクターも次々と生み出され、オモチャやビデオ作品としても製作された。TⅤの特集番組が組まれて後にシリーズ化されたし、ビデオゲームも作られて数年間人気を博した。バービ・サージェントの人気は日本でも火が付き、バンダイは、「ストロベリー・ショート・ケーキ人形」やおもちゃの製造権を得、任天堂のゲームボーイズとニンテンドーDSのためのビデオゲームも発売された。また、パソコンの教材CD-ROMも生産された。

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(↑アメリカングリーティング社が販売したバービ・サージェントのデザインによる文房具セット↓)
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(↑バービ・サージェントのサイン)

*この原作者・Barbi Sargent(バービ・サージェント)について知ることのできる本が2冊あります。

GRETCHENS WORLD---BARsaNT---ALICE HOFFER---hc---1982-2  
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*Barbi Sargentはこの”Gretchen’s World”という本↑の挿絵を担当しました。

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◆Barbi Sargentが同社の製品を初めて手掛けたのは先に述べたように1973年のことで、そのキャラクターは、現在のような「poppyseed 罌粟(けし)の花」ではなく、当初はDaisy(ヒナギク)を手に持つキャラクターで、"Girl with a Daisy"と呼ばれていました。彼女は契約満了の後、同社へあらたに4つのデザインを提案しました。それが「ケシ<罌粟>の子(POPPYSEED)」をフルカラーであしらったデザインで、彼女はその新趣向のデザインを"Strawberry Shortcake ストロベリー・ショート・ケーキ"と名づけました。"Strawberry Shortcake"は、赤い苺(いちご)をシンボルとしたコーディネイトデザインやトータルファッションで、瀬戸のノベルティ製品として作られたのが、この” THE STORY OF POPPYSEED”(罌粟<けし>の子の物語)という本に描かれたような少女の絵でした。この物語もまたキャラクターの挿絵も彼女自身の書き下ろしであり、この表紙カバーに描かれているような少女が瀬戸ノベルティとしても盛んに作られていったというのです。

Enesco 1983 Girl Figurine zom thedaisychain on Ruby Lane -1
Free Strawberry Shortcadnload Free Clip Art, Free Clip Art on Clipart ...

台湾製Lot Of 4 Barbi Sargent Figurines Esa1

*"Strawberry Shortcake"シリーズは、そのトータルデザインが果物やデザート、クッキーやケーキ、スティッカーや写真アルバム、ポスターや服飾ファッションや人形などに多岐にわたって応用され、多彩な商品構成や商業戦略が世に送り出されていきました。"Strawberry Shortcake"シリーズがノベルティとして瀬戸で作られたのは1983年頃のことです。メーカーは「山国製陶」でした。しかし、山国製陶はその頃すでに円高ショックにより瀬戸の工場で作ることができなくなっており、実際に製造したのは同社の台湾の協力工場でした。このブログに掲げている製品も、また当会の収集品も、実際は台湾工場で作られた製品です。↑

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(↑瀬戸ノベルティ文化保存研究会収集品↓)
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☆そもそもこの人形はどういう人形なのでしょうか。英文による様々な情報源から分かることはおよそ次のようなことです。
  

◆物語の主人公「ケシ<罌粟・ケ・>の子(POPPYSEED)」は、アーティスト Barbi Sargentが生み出した愛すべき、人の心を引き付けてやまない魅力的なキャラクターで、この物語は、その「ケシの子」たちに寄り添い、その子たちの心や願いを前向きに、そして積極的になるよう励ますような筋運びの物語です。
◆「ケシ<罌粟>の子」らの一団が、ある一人の孤独な老女の家を探し訪ねる。その子らは、町への道に架かる川を渡ろうとするが、その川の中には恐ろしいモンスターが住んでおり、その子らの前に立ちふさがる。「ケシの子」たちは、その道すがら、「愛する        
ということ」や「友だちになるということ」を実際に学んでいく。
◆主人公の「ケシ<罌粟>の子」は、まわりにいる人たちを、また荒れ狂うモンスターの心までをまるでマジックか何かの魔法のような力で和らげる。彼女の真心は周囲に《感染》し、彼女のほほえみは抗い難く、その瞳はまるで「ケシ<罌粟>」の花のように明く、そして輝きわたる。そのように、この物語は、子供たちに「誠実さ」や「明るさ」を鼓舞する物語であり、物語を貫く前向きのメッセージは子供たちのみならず、親や大人の心までも明るくさせる、という物語なのです。

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Barbi Sargedator of Strawberry Shortcake - VINTAGE SHORTCAKE EPHEMERA (2)

◆"Strawberry Shortcake”のデザインは大いに受け、1983年頃になるとその版権がBarbi Sargent本人の帰属となりました。そうしてどっさりと卵を産む鶏のように、このデザインはテレビ、アニメ、映画、ビデオゲームへと広がり、1980年代には"Strawberry Shortcake”はアメリカ全土で若い女性たちの心を鷲づかみにしていきました。そして、2000年代以降、日本のバンダイや任天堂などもその商戦に参入するに至ったのです。

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◆しかし、そのあまりの人気がBarbi SargentとAmerican Greetings社(アメリカングリーティングカード社)との間に亀裂を生み、1982年、「ストロベリー・ショート・ケーキ」のキャラクターの著作権をめぐる訴訟が起こされ、長い間、両者の間で係争が続きました。

2019年11・30

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(↑瀬戸ノベルティ文化保存研究会収集品↓)
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*当会はイチゴのショートケーキの中にこうした物語が潜んでいることなど知るよしもありませんでした。コロナウィルスの災禍が真に収まった時にこそ、甘く新鮮な"Strawberry Shortcake"(イチゴのショートケーキ)を心ゆくまで味わいたいものです。

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「ウクライナでの戦争を思いながら、今だからこそ『アンネの日記』を読む」の記事を再掲載。

2023年3月3日(金)  

★さる3月1日の朝日新聞に、「心に恐怖 ひどい悪夢」「地下室で息殺し」との見出しで「現代版『アンネの日記』13歳が伝えたい逃避行」という記事が掲載されていました。この記事を書いたのはウクライナのキーウへ特派されている玉川透記者で、その記事に「世界的なベストセラー『アンネの日記』に重ねる人も少なくない」とあります。当会代表(中村)は日々、中日新聞と朝日新聞の朝夕刊を愛読していますが、さる1月30日の中日新聞夕刊に、『アンネの日記』に触れて「ホロコーストは作り話~NPO調査・オランダの若者4人に1人~」という記事が掲載されているのを読んで驚愕しました。
◆実は、当会は本ブログの2月15日の記事で、「ウクライナでの戦争を思いながら、今だからこそ『アンネの日記』を読む」という記事を掲載していました。ロシアのプーチンによる侵略を受けているウクライナでの悲惨な戦争報道に接している今、当会がもし新しい瀬戸ノベルティを作るとしたらどんな人物の像が考えられるだろうか?と考えていたからです。そして思いついたのが『アンネの日記』を書き遺して人生をわずか15年で閉じることをナチスによって強いられた「アンネ・フランクのノベルティ像」のことです。
オランダ・アムステルダムのプリンセン堀という運河に面した隠れ家で13歳から日記を書き綴って全世界に感動を呼び、永遠のベストセラーとなった少女の『アンネの日記』。本ブログの筆者に許される人生の残り時間の中で「世界の名著」というものをできるだけ多く読んでおきたいという思いがあり、この年になって、その『アンネの日記』を一週間かけて初めて読み終え、その1944年(昭和19)2月の日記に強く胸を打たれました。今からちょうど79年前に書かれた記述です。


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(↑筆者が読み終えた『アンネの日記』:1974年版の文春文庫・古書)

■『アンネの日記』の冒頭は、毎回、"キティ様"というアンネの呼びかけから書き出されています。"キティ"というのは、日記帳をアンネがこころの友達であり、心の支えとしていたことから、その日記帳を"キティ"と親しみをこめてそう呼んでいたのです。アンネの言葉によれば、アンネにとって日記帳とは「自分だけの物としてはただ一つの物(『アンネの日記』p252)」だったのです。「私は、これまで誰にも打ち明けられなかったことを、全部あなた(日記帳)に打ち明けられることを祈ります。そして、あなた(日記帳)が私にとって大きな心の支えとなり、慰めになることを祈ります」、とその日記が始まる1942年(昭和17)6月12日に書いています。

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(↑the collection of Anne Frank House Museum, Amsterdam.↓)

■隠れ家では、一歩も外へ出ることを許されず、昼も夜も窓を思い切り開け放つこともできず、「神経のすり切れるような恐怖の明け暮れ(p373)」、「いつも喉にナイフを突きつけられているといような生活(p341)」の中で、カーテンの隙間からただ外を眺めるだけという生活でした。そんな中でも、少女アンネが春の息吹を全身で感じる14歳の時の次のような文章があります。(1944年2月12日)

「春の芽生え
キティ様。1944・2・12(土)
太陽が輝き、空は真っ青です。外には気持のいい微風が吹いています。私はお話がしたい。自由がほしい。友だちがほしい。ひとりぼっちになりたい。ーああ、私はすべてに憧れています。思う存分泣いてみたい。今にもわっと泣き出しそうな気がします。泣けばさっぱりするでしょう。しかし、泣けません。私は何となく落ち着きません。あっちの部屋へ行ったり、こっちの部屋へ来たり、閉まった窓の隙間に鼻を当てて呼吸をしてみたり、そっと胸に手を当ててみました。心臓の鼓動は私に、『あなたはどうしても、私の憧れを満足させられないのですか』と言っているようです。春が私の体の中にいるのだと思います。私はその春が目覚めているのを感じます。それを全身全霊で感じます。普通の態度をとるのは骨が折れます。全く頭が混乱して、何を読み、何を書き、何をしていいかわかりません。私はすべてに憧れていることを知っているだけです。アンネより」。
突き刺さるほど胸が痛い記述が続きます。
「キティ様。1944・2・23(水)…私は時々窓の外を見ました。そこからはアムステルダムの広い区域が見えます。屋根がどこまでもどこまでも続き、遠くの方は青空といっしょになって、どこが境だかわかりません。この日光、この雲のない青空があり、生きてこれを眺めている間、私は不幸ではない、と心の中で思いました。…あなた(日記帳)と同様に私は自由と新鮮な空気に憧れています」。

1952 年初版 1952 1st Ed., Anne Frank Diary of a Young Girl, Anne Frank, DJ
(↑1952 年初版., Anne Frank "Diary of a Young Girl")
 
■アンネがジャーナリスト志望の少女であったということをこの本で初めて知りました。

「誰がこんな苦しみを私たちに与えたのでしょう?誰が私たちユダヤ人を他の人たちと区別したのでしょう?誰が今日まで、私たちをこんなに苦しむままに放置したのでしょう?…私は家庭の仕事をするだけで、やがて忘れられてしまうような生活をしなければならない自分を想像することはできません。私は夫や子供のほかに、何か心を打ち込んでする仕事を持ちたいと思います。…こんな生活の中にあって、いちばん慰めになる点は、少なくとも自分の思想や感情を書き記すことができるということです。そうでなかったら、私は完全に窒息してしまうでしょう(『アンネの日記』p247)。…
私は以前は絵を描くことのできないのが残念でしたが、今では、少なくとも文章の書けることにいっそうの幸福を感ずるようになりました。…私は自分が女ー強い性格の、勇気ある女だと思っています。もし神様が私を長生きさせて下さるなら、つまらない人間で一生を終わりません。私は、世界と人類のために働きます!(p290-291)
…戦争の終わるのは、とても遠い将来のことで、おとぎ話のように、あまりにも現実からかけ離れているような気がするので、何のために勉強しているのか分からなくなりました。…ばかにならないよう、偉くなるよう、ジャーナリストになれるように勉強しなければなりません。私はジャーナリストになりたいのです。死後も生きているような仕事をしたいのです。…文章を書いてさえいれば、何もかも忘れます。悲しみも消え、勇気が湧き上がってきます。私はジャーナリストや作家になれるでしょうか?(p276-277)。…私の最大の希望がジャーナリストになり、それから有名な作家になることだということはあなた(日記帳)もずっと前から知っていますね(p324)」。 

これらは、1944年8月4日にアンネの一家がドイツの秘密警察の男やオランダのナチ党員たちによって拿捕される3か月程前の日記に綴られているアンネの言葉です。

■『アンネの日記』をモチーフとしたノベルティがひょっとして作られていないか?と思って、アメリカのインターネットオークションサイトを検索してみました。そして、見つけました。アンネ・フランクをモデルにしたノベルティ像も作られていたのです。

Hidden in the Pages Work based on the Diary of Anne Frank
(↑"Hidden in the Pages Work based on the Diary of Anne Frank")

■しかし残念ながら、このノベルティは見る人の心を深く打つようなノベルティ像になってはいないように感じられます。

The Diary of a Young Girl Definitive Edition (Penguin Twentieth Century Classic
(↑"The Diary of a Young Girl Definitive Edition <Penguin Twentieth Century Classic>")

■ユダヤ人弾圧政策をとったヒトラーのドイツを逃れ、家族とともに2年以上にわたって、オランダ・アムステルダムで隠れ家生活を送ったアンネ・フランク。13歳から15歳まで、異常な状態の下で暮らした恐怖と屈辱と葛藤の中で心を成熟させていったアンネ・フランク。感受性豊かで、知性とともに機知にもまた情操にも富むアンネは、同居する3家族、8人との閉鎖空間の中での共同生活で早熟とも言える自我を育て、女性としても初潮を迎え、最後は隠れ家としていた倉庫の雇員の密告によってナチス(秘密警察とオランダのナチ党員)に拿捕され、今からちょうど78年前の1945年3月、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所でその短い一生を終えました。収容所の中で広まったチフスに姉のマルゴットとともに感染したのが死因であったそうです。
『アンネの日記』は一人の少女が命を賭して日記という形で、戦争の非情と苛烈さをこの上ないリアリティを以て今現在を生きる私たちにの心に強く迫るだけでなく、「人間の精神が終局に於いても崇高な輝きを見せるものだ」ということを語り伝える無二のノンフィクションとなっています。「…一切の外出を許されないまま隠れ家に閉じ込められ、恐怖と不安の中に世間から遮断された生活(p297)」を強いられたアンネは、ジャーナリストを志望しながらついにその願いを叶えることはできませんでした。しかし、この『アンネの日記』は、命を賭して後世の私たちに遺してくれた比類のない戦争記録と平和への渇望を記録した極限の人間記録であり、見事なジャーナリズムであると言う他はありません。

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(↑The diary of Anne Frank. Found in the collection of Anne Frank House Museum, Amsterdam. Getty ↓)
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★もし、今この時代にアンネが生きていて、ウクライナの戦地へ記者として特派されていたなら、どんなリポートを私たちに書き送ってくれていることだろうか…と想像します。いや、あのウクライナの戦場でまさに今、生死の境に身を置きながら命がけのペンを握るアンネのような女性がいるのかもしれません。


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★★さる1月30日の中日新聞夕刊の3面に、『アンネの日記』に触れて「ホロコーストは作り話~NPO調査・オランダの若者4人に1人~」という記事が掲載されているのを読んで驚きました。


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(↑2023年1月30日中日新聞夕刊3面)

「【ブリュッセル・時事】第二次大戦中のナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)について、オランダの若者世代の約4人に1人が『作り話』だと認識していることが、米NPOの調査で明らかになった。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍に解放されて今月(1月)で78年が経過し、戦争の記憶が薄れている実態が浮き彫りとなった。ホロコーストの犠牲者は推計約600万人。オランダからは10万人超が強制収容所に送られたとされる。『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクもその一人。アムステルダムの隠れ家で密告により警察に逮捕され、1945年2月にドイツの強制収容所で死亡した。調査結果によると、回答者の12%がホロコーストを『作り話』と考えるか、もしくは『ユダヤ人の犠牲者数が大幅に誇張されている』と認識していた。40歳未満に限ると、その割合は23%に上った。また、回答者の27%、40歳未満の32%は、アンネ・フランクが強制収容所で死亡したことを知らなかった。調査を実施したホロコーストによる被害補償を支援するNPOの『対独賠償請求ユダヤ人会議』のギデオン・テイラー会長は『教育に一層力を入れなければ、将来の世代が重要な教訓に触れることができなくなる』と危機感を示した」。(2023年1月30日 中日新聞夕刊の記事)

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(アンネ・フランク 1929、6-1945、8)

■中日新聞のこの衝撃的な記事を読んで思い出すことがあります。旧西ドイツ大統領・ヴァイツゼッカー大統領の歴史的な演説のことです。


映像の世紀「ナチハンター」ー
(↑旧西ドイツ大統領・ヴァイツゼッカー大統領:NHK「映像の世紀 《バタフライエフェクト》ナチハンター」の放送画面より)

*1979年(昭和54)7月、「第二次世界大戦中のナチスの犯罪に時効を認めない」という重大な決定を行っていた西ドイツの国会のことです。戦後40年を迎えた1985年(昭和60)、西ドイツでは終戦の日となる5月8日の連邦議会で第6代西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ン・ヴァイツゼッカー大統領が歴史的な演説を行いました。彼の父親(エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー)は、ニュルンベルク継続裁判で法廷に立たされたナチスの外務次官だったそうです。「目を閉じず、耳を塞がずにいた人たちなら『死の列車』に気づかないはずはありませんでした。人々の想像力はユダヤ人絶滅の方法には思い及ばなかったかもしれません。しかし、現実には、あまりにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのです。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。罪の有無、老若のいずれを問わず、我々全員が過去を引き受けなくてはなりません。過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも盲目となるのです」(NHK「映像の世紀《バタフライエフェクト》~ナチハンター『忘却との闘い』~」より、ヴァイツゼッカー大統領演説)。

★ナチス時代の罪に向き合い、目をそらさずに過去を克服したと評価されるドイツ。しかし、それには40年の歳月が必要でした。そして今もドイツでは、過去の責任をどう果たしていくべきかの取り組みが続けられています。名宰相と高く評価される前首相のアンゲラ・メルケルは次のように述べています。
「ドイツ連邦共和国はナチス支配下での犯罪の責任を負っていることを認めます。私たちドイツ国民は、当時、何が起きていたかを忘れてはなりません。その責任から、平和と国際的秩序を追い求めていくという私たちの義務が生まれるのです。私たちドイツ国民は、何百万人もの犠牲者と彼らの子孫に責任を負っていることを忘れてはなりません。当時何が起きたかを決して忘れてはなりません」(NHK「映像の世紀《バタフライエフェクト》~ナチハンター『忘却との闘い』~)。
しかし、そのドイツも、ロシアのプーチンによるウクライナ侵略を前に、ドイツの主力戦車をウクライナ救援のために送るべきか否かをめぐって紛糾し、結局、大きな苦渋の中で主力戦車を提供する決定を下しました。

映像の世紀「ナチハンター」
(↑前ドイツ首相 アンゲラ・メルケル:NHK「映像の世紀 《バタフライエフェクト》ナチハンター」の放送画面より)

★ところで、この『アンネの日記』には<ポパイ>のことも出てきます。


ポパイ
(↑筆者が読んだ『アンネの日記』の《ポパイの記述》:1974年版の文春文庫・p320)

*「今日、私たちが何を食べようとしているかをお話しましょう。食料の切符を買っていた人が捕まったため、私たちは余分のクーポンも脂もなくなってしまいました。家の中は陰うつな空気に包まれ、食糧も情けない状態となりました。明日から一片の脂も、バターも、マーガリンもありません。朝食にジャガイモのフライ(パンの節約のため)も作れません。おかゆだけです。今日の夕食は、樽に貯蔵しておいたキャベツと肉の小間切れの煮込み料理です。そこで、私はここへ来る前に買った、とてもいい匂いのする香水をつけたハンカチを鼻に当てています。キャベツは一年もたつと、たまらない悪臭を放ちます。部屋の中には、腐った玉子と、防腐剤と、いたんだスモモをごっちゃにしたようなにおいが充満しています。こんなものを食べると考えただけで病気になりそうです。しかも、ジャガイモが特殊の病気にかかっていて、バケツに二杯持ってきても、一杯分はストーブに捨てなければなりません(『アンネの日記』242-243)。…(この間などは)朝はサジに二杯のおかゆだけですから、お腹がからっぽで、ガポガポ音がするような気がします。明けても暮れても、なまゆでホウレン草(ビタミンをなくさないため)と、腐ったジャガイモと、なま、または料理したレタス以外に食べるものがありません。いつか、ポパイのように強くなるかも知れませんが、今のところそんな兆候は見えません(『アンネの日記』p320)」。
 
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(↑山国製陶製 <ポパイ>の瀬戸ノベルティ↓)
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■戦争と深く結びついて盛衰をたどってきた瀬戸ノベルティは、《ラブ&ピース(愛と平和)の使者》としてのメッセンジャーの役割を果たしてきました。瀬戸ノベルティの発祥の地であったドイツは、今も「不名誉な過去の真実から目をそむけない国家であること」をドイツという国のアイデンティティであり、品位であり、国是であると思い定めている国なのです。
そうしたドイツと対照的に、わが日本の国は、アジア各地を侵略しながら覇権を広げ、近代化を遂げてきたという不名誉な過去の真実からいつも目をそむけようとしてきたかのような国と国民であり、私たちの国と国民はそうした不名誉な過去をまるでなかったかのようなことにしてしまうという「忘却」とは闘わずに、現今に至っている」と言わざるを得ないようです。そうした日本の国のありようと国民の姿は、ひとえに明治時代以降の近現代史を筆者も含めてしっかりと学ぼうとしてこなかった歳月の結果なのでしょう。もし、中日新聞の記事に掲載されていたような調査を今、私たちの国の中で行うのであれば、ドイツ以上にそら寒い結果を見せつけられることでしょう。

■『アンネの日記』を読む今、『過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも盲目となるのです』、という旧西ドイツ・ヴァイツゼッカー大統領の歴史的な演説を日本は今こそ見つめ直すべき時であると強く思います。

■◆「私はジャーナリストになりたいのです。死後も生きているような仕事をしたいのです」。そうした夢を叶えることをナチスによって奪われ、15年の短い人生を閉じた少女の『アンネの日記』は、時空を超え、戦争の非情さと空虚さ、そして戦争のもたらす計り知れない大きな罪を今なお私たちに鋭く問い続けています。瀬戸ノベルティの研究を志す当会は、何とかして「アンネ・フランクのそうした尽きない思いと願いとを形にした瀬戸ノベルティ」を世に送り出せないものか、と思案しているところです。


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(アンネ・フランクの胸像)

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「甘いイチゴのショートケーキ」にまつわる瀬戸ノベルティ

2023年2月25日(土)

☆甘いイチゴのショートケーキ(Strawberry Shortcake)にまつわる瀬戸ノベルティをご紹介します。題して「真心の<感染>~『ケシの子人形』の祈り・” Barbi Sargent(バービ・サージェント)の世界~」。イチゴのショートケーキによって人生を切り拓いてきたという女性アーティストの物語です。

Sweetness - Wikipedia

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☆あの黒柳徹子さんの髪形を思い起こさせられることから当会のスタッフは、このキャラクターのノベルティを「徹子ちゃん人形」と呼んでいます。


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(↑” Barbi Sargent”の絵画作品による瀬戸ノベルティ:当会の収集品↓)

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*このノベルティ人形が黒髪の少女であることから、当会は初め、このノベルティは日本人アーティスによる作品ではないかと思っていました。しかし、実際の原作者はBarbi Sargent(バービ・サージェント)というアメリカ人女性でした。

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(↑Barbi Sargent<バービ・サージェント>)

*Barbi Sargent(バービ・サージェント)は、「ストロベリー・ショート・ケーキ」というキャラクターのオリジナルクリエイター・デザイナーで、彼女はAmerican Greetings社(アメリカングリーティングカード社)のフリーランスアーティストとして契約していました。この「ストロベリー・ショート・ケーキ」というキャラクターはアメリカングリーティング社のローレル・バレンタインデー・グリーティングカードとして初めて登場しました。当時、このキャラクターは単に「デイジーガール( Girl with a Daisy )」と呼ばれ、イチゴが印刷されたボンネット帽子を身に着け、デイジー(Daisy・ひなぎく)を手にしたかわいい女の子の絵画作品でした。アメリカングリーティング社スタッフのアートディレクター、レックス・コナーズは、このカードの人気は高く、「その絶大な人気の秘密はイチゴである」と見抜いていました。

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*ある評伝によれば、Barbi Sargent(バービ・サージェント)の履歴(History)は次のようなものです。
フリーランスのアーティスト、バービ・サージェントがアメリカングリーティング社のために「ストロベリー・ショート・ケーキ」のキャラクターを初めて創作したのは1973年のことであった。そのキャラクターは多くの人々から高い人気を集め、沢山のグリーティングカードに採用された。

トランプカード
(↑Barbi Sargent”が描いたストロベリーガールデザインのトランプカード↓)
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*「ストロベリー・ショート・ケーキ」のキャラクターの人気の成功は1980年頃までにアーティスとしてのバービ・サージェントの地位をを不動のものにした。「ストロベリー・ショート・ケーキ」ブランドは、人形、オモチャ、その他いろいろなグッズとして製品化されていったし、「ストロベリー・ショート・ケーキ」の仲間のキャラクターも次々と生み出され、オモチャやビデオ作品としても製作された。TⅤの特集番組が組まれて後にシリーズ化されたし、ビデオゲームも作られて数年間人気を博した。バービ・サージェントの人気は日本でも火が付き、バンダイは、「ストロベリー・ショート・ケーキ人形」やおもちゃの製造権を得、任天堂のゲームボーイズとニンテンドーDSのためのビデオゲームも発売された。また、パソコンの教材CD-ROMも生産された。

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(↑アメリカングリーティング社が販売したバービ・サージェントのデザインによる文房具セット↓)
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(↑バービ・サージェントのサイン)

*この原作者・Barbi Sargent(バービ・サージェント)について知ることのできる本が2冊あります。

GRETCHENS WORLD---BARsaNT---ALICE HOFFER---hc---1982-2  
Gretchen’s World1

Gretchen’s World2
*Barbi Sargentはこの”Gretchen’s World”という本↑の挿絵を担当しました。

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◆Barbi Sargentが同社の製品を初めて手掛けたのは先に述べたように1973年のことで、そのキャラクターは、現在のような「poppyseed 罌粟(けし)の花」ではなく、当初はDaisy(ヒナギク)を手に持つキャラクターで、"Girl with a Daisy"と呼ばれていました。彼女は契約満了の後、同社へあらたに4つのデザインを提案しました。それが「ケシ<罌粟>の子(POPPYSEED)」をフルカラーであしらったデザインで、彼女はその新趣向のデザインを"Strawberry Shortcake ストロベリー・ショート・ケーキ"と名づけました。"Strawberry Shortcake"は、赤い苺(いちご)をシンボルとしたコーディネイトデザインやトータルファッションで、瀬戸のノベルティ製品として作られたのが、この” THE STORY OF POPPYSEED”(罌粟<けし>の子の物語)という本に描かれたような少女の絵でした。この物語もまたキャラクターの挿絵も彼女自身の書き下ろしであり、この表紙カバーに描かれているような少女が瀬戸ノベルティとしても盛んに作られていったというのです。

Enesco 1983 Girl Figurine zom thedaisychain on Ruby Lane -1
Free Strawberry Shortcadnload Free Clip Art, Free Clip Art on Clipart ...

台湾製Lot Of 4 Barbi Sargent Figurines Esa1

*"Strawberry Shortcake"シリーズは、そのトータルデザインが果物やデザート、クッキーやケーキ、スティッカーや写真アルバム、ポスターや服飾ファッションや人形などに多岐にわたって応用され、多彩な商品構成や商業戦略が世に送り出されていきました。"Strawberry Shortcake"シリーズがノベルティとして瀬戸で作られたのは1983年頃のことです。メーカーは「山国製陶」でした。しかし、山国製陶はその頃すでに円高ショックにより瀬戸の工場で作ることができなくなっており、実際に製造したのは同社の台湾の協力工場でした。このブログに掲げている製品も、また当会の収集品も、実際は台湾工場で作られた製品です。↑

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(↑瀬戸ノベルティ文化保存研究会収集品↓)
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☆そもそもこの人形はどういう人形なのでしょうか。英文による様々な情報源から分かることはおよそ次のようなことです。
  

◆物語の主人公「ケシ<罌粟・ケ・>の子(POPPYSEED)」は、アーティスト Barbi Sargentが生み出した愛すべき、人の心を引き付けてやまない魅力的なキャラクターで、この物語は、その「ケシの子」たちに寄り添い、その子たちの心や願いを前向きに、そして積極的になるよう励ますような筋運びの物語です。
◆「ケシ<罌粟>の子」らの一団が、ある一人の孤独な老女の家を探し訪ねる。その子らは、町への道に架かる川を渡ろうとするが、その川の中には恐ろしいモンスターが住んでおり、その子らの前に立ちふさがる。「ケシの子」たちは、その道すがら、「愛する        
ということ」や「友だちになるということ」を実際に学んでいく。
◆主人公の「ケシ<罌粟>の子」は、まわりにいる人たちを、また荒れ狂うモンスターの心までをまるでマジックか何かの魔法のような力で和らげる。彼女の真心は周囲に《感染》し、彼女のほほえみは抗い難く、その瞳はまるで「ケシ<罌粟>」の花のように明く、そして輝きわたる。そのように、この物語は、子供たちに「誠実さ」や「明るさ」を鼓舞する物語であり、物語を貫く前向きのメッセージは子供たちのみならず、親や大人の心までも明るくさせる、という物語なのです。

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Barbi Sargedator of Strawberry Shortcake - VINTAGE SHORTCAKE EPHEMERA (2)

◆"Strawberry Shortcake”のデザインは大いに受け、1983年頃になるとその版権がBarbi Sargent本人の帰属となりました。そうしてどっさりと卵を産む鶏のように、このデザインはテレビ、アニメ、映画、ビデオゲームへと広がり、1980年代には"Strawberry Shortcake”はアメリカ全土で若い女性たちの心を鷲づかみにしていきました。そして、2000年代以降、日本のバンダイや任天堂などもその商戦に参入するに至ったのです。

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◆しかし、そのあまりの人気がBarbi SargentとAmerican Greetings社(アメリカングリーティングカード社)との間に亀裂を生み、1982年、「ストロベリー・ショート・ケーキ」のキャラクターの著作権をめぐる訴訟が起こされ、長い間、両者の間で係争が続きました。

2019年11・30

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(↑瀬戸ノベルティ文化保存研究会収集品↓)
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*当会はイチゴのショートケーキの中にこうした物語が潜んでいることなど知るよしもありませんでした。コロナウィルスで身も心も疲れ果ててしまったこの災禍の真に収まった時にこそ、甘く新鮮な"Strawberry Shortcake"(イチゴのショートケーキ)を何の屈託もない健やかさの中で味わう悦びの時を持ちたいものです。

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ウクライナでの戦争を思いながら、今だからこそ『アンネの日記』を読む。

2023年2月15日(水)  

★ウクライナでの戦争を目にしている今、新しい瀬戸ノベルティを作るとしたらどんな人物の像が考えられるだろうか?…そう考えていました。そして思いついたのが、『アンネの日記』を書き遺して人生をわずか15年で閉じることをナチスによって強いられた少女アンネ・フランクのノベルティ像です。オランダ・アムステルダムのプリンセン堀という運河に面した隠れ家で13歳から日記を書き綴って全世界に感動を呼び、永遠のベストセラーとなった少女の『アンネの日記』。筆者(本ブログの筆者・中村)に許される人生の残り時間の中で「世界の名著」というものをできるだけ多く読んでおきたいという思いがあって、この年になり、その『アンネの日記』を一週間かけて初めて読み終えたところですが、その1944年(昭和19)2月の日記が読む者の胸を強く打ちます。今からちょうど79年前の2月に書かれた記述です。


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(↑筆者が読み終えた『アンネの日記』:1974年版の文春文庫・古書)

■『アンネの日記』の冒頭は、毎回、"キティ様"というアンネの呼びかけから書き出されています。"キティ"というのは、日記帳をアンネがこころの友達であり、心の支えとしていたことから、その日記帳を"キティ"と親しみをこめてそう呼んでいたのです。アンネの言葉によれば、アンネにとって日記帳とは「自分だけの物としてはただ一つの物(『アンネの日記』p252)」だったのです。「私は、これまで誰にも打ち明けられなかったことを、全部あなた(日記帳)に打ち明けられることを祈ります。そして、あなた(日記帳)が私にとって大きな心の支えとなり、慰めになることを祈ります」、とその日記が始まる1942年(昭和17)6月12日に書いています。

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(↑the collection of Anne Frank House Museum, Amsterdam.↓)

■隠れ家では、一歩も外へ出ることを許されず、昼も夜も窓を思い切り開け放つこともできず、「神経のすり切れるような恐怖の明け暮れ(p373)」、「いつも喉にナイフを突きつけられているといような生活(p341)」の中で、カーテンの隙間からただ外を眺めるだけという生活でした。そんな中でも、少女アンネが春の息吹を全身で感じる14歳の時の次のような文章があります。(1944年2月12日)

「春の芽生え
キティ様。1944・2・12(土)
太陽が輝き、空は真っ青です。外には気持のいい微風が吹いています。私はお話がしたい。自由がほしい。友だちがほしい。ひとりぼっちになりたい。ーああ、私はすべてに憧れています。思う存分泣いてみたい。今にもわっと泣き出しそうな気がします。泣けばさっぱりするでしょう。しかし、泣けません。私は何となく落ち着きません。あっちの部屋へ行ったり、こっちの部屋へ来たり、閉まった窓の隙間に鼻を当てて呼吸をしてみたり、そっと胸に手を当ててみました。心臓の鼓動は私に、『あなたはどうしても、私の憧れを満足させられないのですか』と言っているようです。春が私の体の中にいるのだと思います。私はその春が目覚めているのを感じます。それを全身全霊で感じます。普通の態度をとるのは骨が折れます。全く頭が混乱して、何を読み、何を書き、何をしていいかわかりません。私はすべてに憧れていることを知っているだけです。アンネより」。
突き刺さるほど胸が痛い記述が続きます。
「キティ様。1944・2・23(水)…私は時々窓の外を見ました。そこからはアムステルダムの広い区域が見えます。屋根がどこまでもどこまでも続き、遠くの方は青空といっしょになって、どこが境だかわかりません。この日光、この雲のない青空があり、生きてこれを眺めている間、私は不幸ではない、と心の中で思いました。…あなた(日記帳)と同様に私は自由と新鮮な空気に憧れています」。

1952 年初版 1952 1st Ed., Anne Frank Diary of a Young Girl, Anne Frank, DJ
(↑1952 年初版., Anne Frank "Diary of a Young Girl")
 
■アンネがジャーナリスト志望の少女であったということをこの本で初めて知りました。

「誰がこんな苦しみを私たちに与えたのでしょう?誰が私たちユダヤ人を他の人たちと区別したのでしょう?誰が今日まで、私たちをこんなに苦しむままに放置したのでしょう?…私は家庭の仕事をするだけで、やがて忘れられてしまうような生活をしなければならない自分を想像することはできません。私は夫や子供のほかに、何か心を打ち込んでする仕事を持ちたいと思います。…こんな生活の中にあって、いちばん慰めになる点は、少なくとも自分の思想や感情を書き記すことができるということです。そうでなかったら、私は完全に窒息してしまうでしょう(『アンネの日記』p247)。…
私は以前は絵を描くことのできないのが残念でしたが、今では、少なくとも文章の書けることにいっそうの幸福を感ずるようになりました。…私は自分が女ー強い性格の、勇気ある女だと思っています。もし神様が私を長生きさせて下さるなら、つまらない人間で一生を終わりません。私は、世界と人類のために働きます!(p290-291)
…戦争の終わるのは、とても遠い将来のことで、おとぎ話のように、あまりにも現実からかけ離れているような気がするので、何のために勉強しているのか分からなくなりました。…ばかにならないよう、偉くなるよう、ジャーナリストになれるように勉強しなければなりません。私はジャーナリストになりたいのです。死後も生きているような仕事をしたいのです。…文章を書いてさえいれば、何もかも忘れます。悲しみも消え、勇気が湧き上がってきます。私はジャーナリストや作家になれるでしょうか?(p276-277)。…私の最大の希望がジャーナリストになり、それから有名な作家になることだということはあなた(日記帳)もずっと前から知っていますね(p324)」。 

これらは、1944年8月4日にアンネの一家がドイツの秘密警察の男やオランダのナチ党員たちによって拿捕される3か月程前の日記に綴られているアンネの言葉です。

■『アンネの日記』をモチーフとしたノベルティがひょっとして作られていないか?と思って、アメリカのインターネットオークションサイトを検索してみました。そして、見つけました。アンネ・フランクをモデルにしたノベルティ像も作られていたのです。

Hidden in the Pages Work based on the Diary of Anne Frank
(↑"Hidden in the Pages Work based on the Diary of Anne Frank")

■しかし残念ながら、このノベルティは見る人の心を深く打つようなノベルティ像になってはいないように感じられます。

The Diary of a Young Girl Definitive Edition (Penguin Twentieth Century Classic
(↑"The Diary of a Young Girl Definitive Edition <Penguin Twentieth Century Classic>")

■ユダヤ人弾圧政策をとったヒトラーのドイツを逃れ、家族とともに2年以上にわたって、オランダ・アムステルダムで隠れ家生活を送ったアンネ・フランク。13歳から15歳まで、異常な状態の下で暮らした恐怖と屈辱と葛藤の中で心を成熟させていったアンネ・フランク。感受性豊かで、知性とともに機知にもまた情操にも富むアンネは、同居する3家族、8人との閉鎖空間の中での共同生活で早熟とも言える自我を育て、女性としても初潮を迎え、最後は隠れ家としていた倉庫の雇員の密告によってナチス(秘密警察とオランダのナチ党員)に拿捕され、今からちょうど78年前の1945年3月、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所でその短い一生を終えました。収容所の中で広まったチフスに姉のマルゴットとともに感染したのが死因であったそうです。
『アンネの日記』は一人の少女が命を賭して日記という形で、戦争の非情と苛烈さをこの上ないリアリティを以て今現在を生きる私たちにの心に強く迫るだけでなく、「人間の精神が終局に於いても崇高な輝きを見せるものだ」ということを語り伝える無二のノンフィクションとなっています。「…一切の外出を許されないまま隠れ家に閉じ込められ、恐怖と不安の中に世間から遮断された生活(p297)」を強いられたアンネは、ジャーナリストを志望しながらついにその願いを叶えることはできませんでした。しかし、この『アンネの日記』は、命を賭して後世の私たちに遺してくれた比類のない戦争記録と平和への渇望を記録した極限の人間記録であり、見事なジャーナリズムであると言う他はありません。

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(↑The diary of Anne Frank. Found in the collection of Anne Frank House Museum, Amsterdam. Getty ↓)
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★もし、今この時代にアンネが生きていて、ウクライナの戦地へ記者として特派されていたなら、どんなリポートを私たちに書き送ってくれていることだろうか…と想像します。いや、あのウクライナの戦場でまさに今、生死の境に身を置きながら命がけのペンを握るアンネのような女性がいるのかもしれません。


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★さる1月30日の中日新聞夕刊の3面に、『アンネの日記』に触れて「ホロコーストは作り話~NPO調査・オランダの若者4人に1人~」という記事が掲載されているのを読んで驚きました。


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(↑2023年1月30日中日新聞夕刊3面)

「【ブリュッセル・時事】第二次大戦中のナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)について、オランダの若者世代の約4人に1人が『作り話』だと認識していることが、米NPOの調査で明らかになった。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍に解放されて今月(1月)で78年が経過し、戦争の記憶が薄れている実態が浮き彫りとなった。ホロコーストの犠牲者は推計約600万人。オランダからは10万人超が強制収容所に送られたとされる。『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクもその一人。アムステルダムの隠れ家で密告により警察に逮捕され、1945年2月にドイツの強制収容所で死亡した。調査結果によると、回答者の12%がホロコーストを『作り話』と考えるか、もしくは『ユダヤ人の犠牲者数が大幅に誇張されている』と認識していた。40歳未満に限ると、その割合は23%に上った。また、回答者の27%、40歳未満の32%は、アンネ・フランクが強制収容所で死亡したことを知らなかった。調査を実施したホロコーストによる被害補償を支援するNPOの『対独賠償請求ユダヤ人会議』のギデオン・テイラー会長は『教育に一層力を入れなければ、将来の世代が重要な教訓に触れることができなくなる』と危機感を示した」。(2023年1月30日 中日新聞夕刊の記事)

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(アンネ・フランク 1929、6-1945、8)

■中日新聞のこの衝撃的な記事を読んで思い出すことがあります。旧西ドイツ大統領・ヴァイツゼッカー大統領の歴史的な演説のことです。


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(↑旧西ドイツ大統領・ヴァイツゼッカー大統領:NHK「映像の世紀 《バタフライエフェクト》ナチハンター」の放送画面より)

*1979年(昭和54)7月、「第二次世界大戦中のナチスの犯罪に時効を認めない」という重大な決定を行っていた西ドイツの国会のことです。戦後40年を迎えた1985年(昭和60)、西ドイツでは終戦の日となる5月8日の連邦議会で第6代西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ン・ヴァイツゼッカー大統領が歴史的な演説を行いました。彼の父親(エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー)は、ニュルンベルク継続裁判で法廷に立たされたナチスの外務次官だったそうです。「目を閉じず、耳を塞がずにいた人たちなら『死の列車』に気づかないはずはありませんでした。人々の想像力はユダヤ人絶滅の方法には思い及ばなかったかもしれません。しかし、現実には、あまりにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのです。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。罪の有無、老若のいずれを問わず、我々全員が過去を引き受けなくてはなりません。過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも盲目となるのです」(NHK「映像の世紀《バタフライエフェクト》~ナチハンター『忘却との闘い』~」より、ヴァイツゼッカー大統領演説)。

★ナチス時代の罪に向き合い、目をそらさずに過去を克服したと評価されるドイツ。しかし、それには40年の歳月が必要でした。そして今もドイツでは、過去の責任をどう果たしていくべきかの取り組みが続けられています。
名宰相と高く評価される前首相のアンゲラ・メルケルは次のように述べています。
「ドイツ連邦共和国はナチス支配下での犯罪の責任を負っていることを認めます。私たちドイツ国民は、当時、何が起きていたかを忘れてはなりません。その責任から、平和と国際的秩序を追い求めていくという私たちの義務が生まれるのです。私たちドイツ国民は、何百万人もの犠牲者と彼らの子孫に責任を負っていることを忘れてはなりません。当時何が起きたかを決して忘れてはなりません」(NHK「映像の世紀《バタフライエフェクト》~ナチハンター『忘却との闘い』~)。
しかし、そのドイツも、ロシアのプーチンによるウクライナ侵略を前に、ドイツの主力戦車をウクライナ救援のために送るべきか否かをめぐって紛糾し、結局、大きな苦渋の中で主力戦車を提供する決定を下しました。

映像の世紀「ナチハンター」
(↑前ドイツ首相 アンゲラ・メルケル:NHK「映像の世紀 《バタフライエフェクト》ナチハンター」の放送画面より)

★ところで、この『アンネの日記』には<ポパイ>のことも出てきます。


ポパイ
(↑筆者が読んだ『アンネの日記』の《ポパイの記述》:1974年版の文春文庫・p320)

*「今日、私たちが何を食べようとしているかをお話しましょう。食料の切符を買っていた人が捕まったため、私たちは余分のクーポンも脂もなくなってしまいました。家の中は陰うつな空気に包まれ、食糧も情けない状態となりました。明日から一片の脂も、バターも、マーガリンもありません。朝食にジャガイモのフライ(パンの節約のため)も作れません。おかゆだけです。今日の夕食は、樽に貯蔵しておいたキャベツと肉の小間切れの煮込み料理です。そこで、私はここへ来る前に買った、とてもいい匂いのする香水をつけたハンカチを鼻に当てています。キャベツは一年もたつと、たまらない悪臭を放ちます。部屋の中には、腐った玉子と、防腐剤と、いたんだスモモをごっちゃにしたようなにおいが充満しています。こんなものを食べると考えただけで病気になりそうです。しかも、ジャガイモが特殊の病気にかかっていて、バケツに二杯持ってきても、一杯分はストーブに捨てなければなりません(『アンネの日記』242-243)。…(この間などは)朝はサジに二杯のおかゆだけですから、お腹がからっぽで、ガポガポ音がするような気がします。明けても暮れても、なまゆでホウレン草(ビタミンをなくさないため)と、腐ったジャガイモと、なま、または料理したレタス以外に食べるものがありません。いつか、ポパイのように強くなるかも知れませんが、今のところそんな兆候は見えません(『アンネの日記』p320)」。
 
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(↑山国製陶製 <ポパイ>の瀬戸ノベルティ↓)
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■戦争と深く結びついて盛衰をたどってきた瀬戸ノベルティは、《ラブ&ピース(愛と平和)の使者》としてのメッセンジャーの役割を果たしてきました。瀬戸ノベルティの発祥の地であったドイツは、今も「不名誉な過去の真実から目をそむけない国家であること」をドイツという国のアイデンティティであり、品位であり、国是であると思い定めている国なのです。
そうしたドイツと対照的に、わが日本の国は、アジア各地を侵略しながら覇権を広げ、近代化を遂げてきたという不名誉な過去の真実からいつも目をそむけようとしてきたかのような国と国民であり、私たちの国と国民はそうした不名誉な過去をまるでなかったかのようなことにしてしまうという「忘却」とは闘わずに、現今に至っている」と言わざるを得ないようです。そうした日本の国のありようと国民の姿は、ひとえに明治時代以降の近現代史を筆者も含めてしっかりと学ぼうとしてこなかった歳月の結果なのでしょう。もし、中日新聞の記事に掲載されていたような調査を今、私たちの国の中で行うのであれば、ドイツ以上にそら寒い結果を見せつけられることでしょう。

■『アンネの日記』を読む今、『過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも盲目となるのです』、という旧西ドイツ・ヴァイツゼッカー大統領の歴史的な演説を日本は今こそ見つめ直すべき時であると強く思います。

■◆「私はジャーナリストになりたいのです。死後も生きているような仕事をしたいのです」。そうした夢を叶えることをナチスによって奪われ、15年の短い人生を閉じた少女の『アンネの日記』は、時空を超え、戦争の非情さと空虚さ、そして戦争のもたらす計り知れない大きな罪を今なお私たちに鋭く問い続けています。瀬戸ノベルティの研究を志す当会は、何とかして「アンネ・フランクのそうした尽きない思いと願いとを形にした瀬戸ノベルティ」を世に送り出したい、と思案しているところです。


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(アンネ・フランクの胸像)

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