マスク姿の山城柳平
☆今、コロナウィルスで人々の心は感染を恐れ、すべての社会活動が委縮しています。それとは全く関係ありませんが、山城柳平がマスクをかけた珍しい写真を見つけました。



*↑柳平が昭和7年に建てた旧居からその解体中に当会が発見した提灯です。山城柳平が「丸山陶器合名会社」を設立したのは昭和12年で、この提灯はその時代の貴重な提灯です。当会は、「丸山陶器展」の開催が期待されるその時に備え、この提灯を収集保存することにしました。↓

*この「丸山陶器合名会社」を設立した翌年、山城柳平は中国大陸へ視察旅行に出かけてました。絶版になっている山城柳平の伝記『黒い煙と白い河~山城柳平と瀬戸の人形~』末尾の年譜には「市場視察その他の目的で」と記されています。当会は山城柳平の秘蔵写真アルバムを入手しました。↓

*その表紙には「山城柳平・昭和13年4月20日出発・昭和13年5月25日帰着~北支視察写真」と題されており、実際は中国の国情と石炭事情の現地視察が主な目的だったようです。

*そのアルバムの中に珍しいマスク姿の山城柳平の写真もありました。

*↑昭和13年5月6日、山西省の大同炭鉱視察(入坑直前)とあり、同行者に加藤利作(丸利商店社長)、加藤寿保(山壽商店社長)などの写真とともに、

*↑…黒いマスクをかけた柳平が写っています。↓


*↑アルバムに収められた当時の山西省の大同炭鉱。大同炭鉱は「万人鉱」で議論が割れると言われる有名な大炭鉱です。

*↑右端が山城柳平。日本は戦時下は勿論、戦後もさらなる石炭不足に悩み、瀬戸の丸山陶器は政府やGHQに働きかけて石炭の入手に奔走し、先に報じたプラスティックレースや各種ノベルティの生産に邁進したのです。

*この当時(昭和12年頃)の丸山陶器の写真もあります。↓




*↑現在、解体されている山城柳平の旧居(当時)。下は解体前に当会が撮影した旧居。



*↑昭和12年頃の丸山陶器周辺の写真。それが、次のような風景でした。(解体前に撮影)↓

(↑2020年2月、当会撮影↓)


(↑昭和10年代後半頃か↓)



↑*流れているのは瀬戸川で、そこに架かる橋が見えます。この橋は丸山陶器が寄付した橋で、そのため「丸山橋」と呼ばれていました。

*↑地元のある写真館が撮影した一枚の写真をもとに名古屋市在住の川渕長之氏が描いた絵画。「「煙突のある風景」。この元の写真に写され、この絵に描かれた橋が、実は「丸山橋」だったのです。

*平成22年に解体され、今は「新共栄橋」と呼ばれる永久橋に変わりました。↓地名に籠められた「まちの歴史」、大切な歴史的文化遺産であるこうした地名や固有名詞が行政の公平性という名のもとに安易に消されていく。そうしたことが、果たして、本当に豊かなことである、と言えるのでしょうか…。否!

*↑瀬戸ノベルティ産業の盛況の時代を語り伝えてきた「丸山橋」。「新共栄橋」というような現在の橋の名前は瀬戸市固有の歴史や「まちの物語」を決して語り伝えはしないのです。

(↑「昭和36年版・年鑑時事経済新報」↓)



*床下に思いがけない物が置かれていました。↓


*「豆炭」(まめたん)でした。今では知る人も少なくなった「昭和の燃料」でした。調べてみて驚いたことには、今年は「豆炭」が発明されてちょうど100年になるのです。「豆炭」は、1920年(大正9年)、 大阪で発明されたのです。

| 記事 | 12:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑



























































































































