2023年 3月7日(火)
★当会の活動が大学の卒業論文に取り上げられました。
◆当「瀬戸ノベルティ文化保存研究会」のささやかな活動が瀬戸市在住のある社会人大学生の目に留まり、このほどその人の卒業論文で紹介されました。その卒論の表題は『陶都文芸復興への架け橋となるか-瀬戸ノベルティ文化保存研究会の活動-』。
瀬戸固有の窯業資源である瀬戸ノベルティの文化的特質、その盛衰の鍵となってきた「デザインのオリジナリティ」をめぐる課題、そしてノベルティ産業の文化的再生の可能性に焦点を当てる貴重な論考となっています。
☆そこで、瀬戸ノベルティをめぐるデザインの模倣・剽窃問題が表面化して今年でちょうど70年になるドイツ起源の「ハンメル(フンメル)人形」について、瀬戸ノベルティ産業の創業者で老舗の丸山陶器製の場合を例に振り返ります。
<意匠デザインをめぐる文化摩擦・瀬戸ノベルティの"宿命的悲哀"・ハンメル人形の場合>
☆当会は、いろいろなノベルティメーカーからハンメル人形を収集しています。ハンメル(フンメル)人形はノベルティ産業の草創期から発展期にかけて瀬戸の多くのメーカーが製作していた人気アイテムで、その「意匠デザイン」をめぐる文化摩擦をも惹起してきた特異なアイテムなのです。
*これらは敗戦後まもなくの頃、GHQによる占領下の時代に作られたoccupied japan(オキュパイド・ジャパン)製品か、あるいはその直後の昭和20年代後半から昭和30年代初期の製品であろうと思われます。

*70年近くホコリにまみれたハンメル人形およそ300体が木箱の中から発見されました。


*ハンメル(フンメル)人形は「半磁器」製品の代表的なノベルティです。

*70年あまり積もったホコリを洗い流して撮影を行いました。




*「半磁器」製品は磁器とハクウンの中間の生地(素地)です。ハクウンのような貫入(かんにゅう・一種のひび割れ)が入ることが特徴であるため、その貫入がなんとも言えない風合いを感じさせます。

*↑日本陶磁器輸出組合が平成11年(1999年)度末の解散にあたって刊行した『日本陶磁器輸出47年史』 にハンメル人形について次のように紹介されています。「ハンメル(HUMMEL)人形」というのは、ドイツの修道女ハンメルが少年少女向けに書いた絵本に描かれた少年少女の風貌を人形に作ったものである」。また、別の情報源によれば、「スペインのリヤドロと並び、世界的に有名な陶磁器人形ブランド。ゴーベル社<ゲーベル社(Goebel)> により"M.I.Hummel" の名前で製品のデザインと開発、販売を行ってきたが、一時衰退、2008年中にフンメル人形の生産を中止すると発表した。現在は、新たにHummel& Manufaktur GmbHが"M.I.Hummel"ブランドの製造権を引き継ぎ、 日本では株式会社アヅマが正規代理店として百貨店を中心に販売を展開している」とあります。
*ハンメル人形は世界で最もよく知られたノベルティの名門人気アイテムです。その人気アイテムを瀬戸市で最初に作ったのが瀬戸ノベルティメーカーの嚆矢で名門の「丸山陶器」でした。

(丸山陶器社屋外観:左側の木造家屋は社主の旧住居・右側の白い建物は事務所棟 <2018年10/30当会撮影>)

(↑アーナルト社が扱った丸山陶器製「ハンメル人形」を紹介したアメリカの雑誌の一例:1960年6月号↓)




*↑この製品はあるノベルティメーカーの廃業に伴ない、当会が同社から入手した「本物真正のハンメル人形」です。廃業したそのメーカーが製作見本サンプルとして収集していた製品です。

*↑これは、<The Gift & Art Buyer>というアメリカで出版されていた雑誌の1963年(昭和38年)8月号に掲載されたハンメル人形の広告記事です。↓この記事によれば、

*西ドイツのバーバリア地方にある専用工場で作られ、

*製作者はGeobel(ゴーベル・ゲーベル)社。その製品が同社の真正の製品であるか否かは裏印を見ればわかります。製作者のGeobel社が最も大切にしていたのが"authenticity"でした。"authenticity"というのは、「正統性・出所の正しさ・真正さ」ということで、「まぎれもなく本物の製品であることの証」を意味します。この広告には"Authentic Hummel figurines are identified by the indented M.I .Hummel on the base of every piece"(真正のハンメル人形はそれぞれ全ての製品に"M.I .Hummel"という押印が施されているもの)とあり、正統な押印の明示により厳格にその著作権が主張されていました。製品に"M.I .Hummel"というこの押印(indented mark)がなければまずすべて「偽物、まがい物」ということになっていたのです。

(↑製品の台座に刻まれた"M.I .Hummel"という押印)

*また、どの製品にもハンメル独特のトレードマーク、いわゆる「蜜蜂マーク」が付けられているはずである、というのです。本物の製品であるならば、正真正銘のハンメルであること("authenticity")を示すマークが必ず付けられているのです。↓


*この、いわゆる「蜜蜂マーク」が本物で正真正銘のハンメルである正統性("authenticity")を示すトレードマークでした。
当会はこの製品の製作時期がこれまで分かりませんでしたが、ようやく分かりました。「丸山陶器のハンメル人形」を見つめるこのリポートの行き着く先に、実は「瀬戸ノベルティの宿命的悲哀・デザインの模倣」という残念な結末が見えてくるのです。

*↑この画像はアメリカで出版されていた家庭雑誌1960年11月号に掲載されたハンメルの広告で、当会が収集しているハンメル製品と同種の製品の広告です。↓


(↑当会の収集品)
*この広告記事と出会ったことで、当会の収集品であるこの製品が1960年(昭和35)の製品であることが分かりました。

*もう一体のハンメルの人形をご紹介しましょう。



*少年が木の枝に座っているノベルティで、青い鳥が少年に視線を送っています。この製品についての広告もありました。《House Beautiful》というアメリカの生活雑誌の1960年11月号に掲載された以下の広告です。↓



*この広告記事にも、毅然として「このマークこそ、世界で最もよく知られ、最も権威ある正真正銘の製品であることを示すマークである」と銘打たれています。当時、Goebel(ゴーベル・ゲーベル)社が≪類似品≫に悩まされていたであろうことが窺い知れるのです。実は、Goebel社のその悩みと瀬戸ノベルティとは密接な関わりがあったのです。



*この丸山陶器製のノベルティは1960年11月号に掲載されたアメリカの雑誌広告に載っていたハンメル人形と同種の製品です。

*この丸山陶器製ノベルティの押印はどうなっているのでしょうか。↓


*製品の底面に"IMPORT"という押印が焼き付けられています。言うまでもなく「輸入品」という意味です。これは、例えば、この丸山陶器製のノベルティを買う人がアメリカ人であるとすれば、メーカーの丸山陶器側からすればアメリカへの「輸出品(EXPORT)」ということになりますが、アメリカ人にとっては「輸入品("IMPORT")」ということになります。製作著作権者であるGeobel(ゴーベル・ゲーベル)社側からすれば、「丸山陶器製であろうと他の瀬戸ノベルティメーカーの製品であろうと、ハンメル人形によく似てはいるものの、「ハンメル人形ではない"似非品"である」ということになり、Goebel社側からすれば丸山陶器製であっても結局「マガイモノ」「ニセモノ」の製品ということになります。もし、その「ハンメル人形によく似た瀬戸製の製品」の出来がよければよい程、それは誠に鬱陶(うっとう)しく、面倒きわまりない、そして許しがたい「マガイモノ」ということになるのです。その製品が「瀬戸ノベルティのパイオニアであった名門の丸山陶器が作った最高級品である」と瀬戸の窯業界や日本国内で評価されたとしても、所詮は「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」であり、結局、Goebel社側にしてみれば、「似て非なるもの」、つまり、似非(えせ)であり、「にせもの」にすぎません。「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」は、どこまで行ってもGoebel社側からは"authenticity"は得られず、「にせもの」「模倣物」というそしりは免れません。私たち瀬戸市民にとってみれば、それは深刻味を帯びてきます。
*世界的な人気アイテムであるハンメル人形の生産を瀬戸のノベルティメーカーに働きかけたのはアメリカなど外国の一部のバイヤー(購入者・発注者)であり、その代理人である日本の商社、あるいは、日本に支社を持つ外国の商社の発注によるものでした。「ハンメル人形の"authenticity"とは何か」を百も承知のはずのそうしたバイヤーや商社は、「ハンメル人形」ではなく、「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」の納入をめぐる商取引を丸山陶器をはじめとする瀬戸のノベルティメーカー各社と行っていたのです。Goebel社側はそれを「意図的な作為」、あるいは「未必の故意」と受けとめていたかもしれません。いずれにしても、Goebel社側は、「瀬戸のノベルティメーカーがバイヤーや商社ぐるみで侵していた商モラルの欠如」と見ていたのです。瀬戸のノベルティメーカーと製作者・著作権者(製作権所有者)のドイツのGoebel社側との間には埋めがたいギャップがあったのです。
☆当会は2020年夏、「丸山陶器製の"ハンメル"製品」を大量に掘り起こし、撮影する機会に恵まれました。
*敗戦後まもなくのいわゆる"occupied japan(オキュパイド・ジャパン・占領下日本製)"時代の製品が多く含まれた製品です。70年以上も「丸山陶器」の社屋の深くで眠り続けてきた、ホコリまみれのハンメル人形、およそ300体を当会は木箱の中から発見したのです。


*「丸山陶器」は言うまでもなく、瀬戸ノベルティの創業者で、瀬戸ノベルティの至宝を作り続けてきたメーカーでしたが、今はすべての生産を終了しています。当会だけがその活動姿勢を認められ、同社の信頼を受けて唯一の渉外代理者となっています。この「丸山陶器」を見ることなくして瀬戸ノベルティを語ることはできないのです。

*同社のハンメル人形も、典型的な「半磁器」製の瀬戸ノベルティです。

(↑丸山陶器の半箱)

*半箱の中で70年以上も、ホコリに埋もれて眠り続けてきた丸山陶器製の「ハンメル(風)人形」。これらのノベルティを見つめてみると、"陶都・瀬戸の宿命的悲哀"が透かし見えてくるのです。




*いわゆる「ハンメル人形」(正確には「ハンメル風人形」)は日本では瀬戸市でのみ作られてきました。丸山陶器のほか、日光陶器など何社かのノベルティメーカーが競って「ハンメル風人形」を作ってきましたが、そうした「瀬戸製ハンメル人形」の中でも「丸山陶器製のハンメル人形」は最高級のハンメル人形である、と評価されてきました。



*さて、丸山陶器製の「ハンメル風人形」あるいは「ハンメル調人形」の押印には他にどんなものがあるでしょうか。





*これは"made in occupied japan"「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」、「占領下日本製」の製品です。今、アメリカにはこうした「占領下の瀬戸市で作られた『ハンメル人形』、正確には、「ハンメル風人形」(あるいは「ハンメル調人形」)が沢山残されているのです。そのほか、


(↑JAPAN・SAMPLEの文字を焼き付けたもの)

(↑JAPAN、あるいはMADE IN JAPANのシールを貼ったもの↓)


(↑不思議なマークが焼き付けられた製品)

(↑不思議なマークの焼き付けに加えてサディック社・アンドレアのマークシールを貼ったもの)

(↑当方はこれに関し、まったく知識を持ち合わせていません)

(↑"Harvan"というシールが貼られたもの)
*いずれにしても、丸山陶器など瀬戸のノベルティメーカー各社はこうした世界的な人気アイテムを大量に生産していたのです。しかし、このデザインの"authenticity"(「正統性・出所の正しさ・真正さ」)をめぐる彼我のギャップは戦後まもなくから国際問題になっていました。

*日本陶磁器輸出組合が平成11年(1999)度末の解散にあたって刊行した『日本陶磁器輸出47年史』 には、ノベルティなどのデザインをめぐる摩擦が次のように記録されています。
*まずは英国との関係です。
「第二次世界大戦後、英国より、陶磁器の意匠模倣についてしばしば抗議が行われ、これに対し業界として反論ないし弁明と通商産業省の輸出貿易管理令等による措置が行われたが…、一方、日本政府(吉田内閣)は、日本の意匠模倣問題が講和条約批准の際、英国議会で問題となったことなど、両国友好関係に悪影響を及ぼすのを恐れ、問題の円満解決を図るため、英国陶業界代表の来朝を計画し、英国陶業連盟理事ウエントワース・シールズ氏招聘による日英陶業会談の開催となった」。
*また、ドイツのハンメル問題についても次のように書かれています。
「…昭和28年(1953)秋頃、当組合員数社に対して、ハンメル人形製作権所有者と称する西独のゲーベル商会の弁護士により抗議が行われ、当組合では先方の主張を照会した処、昭和29年(1954)8月24日、正式に意匠の模倣(問題)の申し入れがあった。その後、折衝を重ね、(イ)ハンメルの字句を使わぬこと、(ロ)模倣と見做(みな)されるものの製作輸出をしないこと、として大体諒解した。次いで、昭和30年(1955)5月、ゲーベル商会主フランツ・ゲーベル氏が来朝し、5月20日、当組合関係者と、また翌21日、当組合ノベルティ部会と懇談し、ゲーベル氏の主張の範囲は明確となったが、同氏の全製作品は同氏帰国後、送付を受けることになった。こうして、翌昭和31年(1956)1月に至りゲーベル氏より見本写真の送付を受け、同氏と種々折衝の結果、我が業界としても模倣防止措置を講ずることとなった」。

*↑丸山陶器の外観(2018年10月30日当会撮影)です。右が現在の事務所棟で、左が創業者の山城柳平が建てた居宅。右の現在の事務所棟とともに1932年(昭和7年)に建てられた建物ですが、左の居宅は老朽化のため、すでに解体されており、今はもうありません。当会は、陶都・瀬戸を代表するこの歴史的な建物の詳細な解体の一部始終をビデオと写真とで記録しました。


(↑創業者の山城柳平が建て、2代目龍蔵も住んだ居宅:2016年 1月31日、当会撮影)



(↑木造の居宅が解体された後の2020年3月27日、当会撮影)

(↑現在の事務所棟、当会撮影↓)

*瀬戸ノベルティを創始し、瀬戸ノベルティのパイオニア企業であった丸山陶器。その百余年にわたるノベルティ生産に幕を引いたのが4代目社主(直系としては3代目社主)の故・加藤豊さんでした。瀬戸ノベルティ研究の第一人者で前名古屋学院大学教授の十名直喜(とな・なおき)さんは、その著「現代産業に生きる技~『型』と創造のダイナミズム~』(勁草書房刊)の中で、加藤豊さんについて次のように書いておられます。

(勁草<けいそう>書房刊)

「瀬戸のノベルティ、中でも丸山陶器の人形の品質と技術を国際的・歴史的にどう評価すべきかについて、加藤豊氏と熱い議論を交わした。『マイセン人形と瀬戸の人形では、製品の質もマーケットも全く異なる』と加藤豊氏は力説する。マイセンは東西ドイツの統合までは国営で、フランスのリモージュ、オランダのロイヤル・コペンハーゲンでも公的な補助がなされているようである。マイセン人形はほとんど手起こしで、小さな人形でもずしりと重い。『うち(丸山陶器)も、よくここまでやったと思う。瀬戸の他社に比べて、一頭抜きん出た水準まで到達したが、マイセンと比較できるところまではとても行きませんでした』と述懐する。
さらにブランド戦略については、『当社としては、ブランド化の意図はありませんでした。仮にそれを指向したとしても、何世代にもわたる時空が必要とされることであったと思います』と述べる。米国をはじめとする市場では、売場、価格帯、購買層などがまったく違う。宝飾品としてのマイセン人形は、4インチ(10cm)の小物でも数万円し、大形人形となると数百万円に上る。丸山陶器の人形は宝石店には置かれず、一部の骨董店にはあったものの、ヨーロッパ製と称して置かれていたのではないかと推測される。ギフトショップやデパートのギフト売場が主で、価格はマイセン人形の1割にも満たなかった。こうした大きな格差は、品質もさることながら地域ブランド力などによって増幅されていたようである。例えば、スペインのリャドロの場合、酸化による素地(きじ)焼成で、絵付けも上絵付けではなく下絵付けに拠つている。リャドロといえども上絵の難しいものはほとんどやっていない。また、素人にはわかりにくい所でのコストダウン(手抜き)もしている。
一方、丸山陶器の人形は、生素地(なまきじ)ですべてのパーツを組み立て、焼きあがったものにすみずみまで丹念に上絵付けする。品質的にはリャドロの製品が明らかに見劣りするのに、価格は丸山陶器の人形の何倍もするのである。その差はどこにあるのか。加藤豊氏は、オリジナルデザインに基づく(ヨーロッパという)地域ブランドにあったのではないかと見る。丸山陶器のデザインは基本的にはほとんどバイヤー頼みであった。これは遠く離れた異文化の地で西洋人形を作ることの文化的な難しさが絡んでいたと見られる。動物、鳥、花など他の置物や食器に比べて、人形はまさに歴史や宗教などを含む文化の塊である。欧米の文化、風俗習慣に根ざさない瀬戸、丸山陶器の西洋人形づくりに宿命的な深い困難があったといえる」。
(十名直喜著「現代産業に生きる技~『型』と創造のダイナミズム~』勁草書房刊より)

(瀬戸ノベルティアーケードin 末広町:2010年9月、当会主催:撮影)

(空き店舗に丸山陶器のノベルティを沢山飾りました)

(右・故・加藤豊さん)


(↑2010年9月、丸山陶器4代目社長・加藤豊氏の遺影:当会代表・中村が撮影
*加藤豊さんはこの撮影の数日後に急逝されました。当会代表が撮影したこれらの写真が加藤豊さんの遺影となりました。

(↑バイヤーのサディック氏を長良川の鵜飼いでもてなす丸山陶器2代目社長・龍蔵さん:左端)
*瀬戸ノベルティは、第一次世界大戦の勃発でドイツからの輸入が途絶えたことにより、『マイセン人形の代替品』として盛んに瀬戸市で作られ、主に米国に輸出されました。その瀬戸ノベルティ産業の嚆矢(こうし・創始社)が「丸山陶器」で、丸山陶器を初め瀬戸ノベルティの多くのメーカーが盛んにドイツのハンメル風人形を生産しました。そうした経緯から、丸山陶器の製品を筆頭に、『瀬戸ノベルティはコピーだ、模倣だ』、という人も少なくありませんでした。
*確かに瀬戸ノベルティは初め、ドレスデン人形やハンメル人形などヨーロッパ製品の模倣品、代替品として作られ、安価であることと出来栄えがよいために米国で受け入れられました。とりわけ移民国家である米国の中で中・低収入階層の人たちは、本当は憧れのマイセン磁器が欲しいが、それは高価で手が届かないため、日本製の製品で代替するということで、瀬戸ノベルティが盛んにアメリカに輸出されていったのです。そのようにまず、瀬戸ノベルティは代替品・模倣品・二級品として登場しましたし、名古屋学院大学元教授の十名直喜さんによれば、「加藤豊氏(丸山陶器4代目社長)も、瀬戸ノベルティのマイセンは、本場のマイセン人形に比肩するまでにはとても至っておらず、代替品としてもなお開きが大きいと見て」いました。しかし、その一方で、「戦後に入ってからの瀬戸ノベルティはその製法の複雑多岐にわたる製造技術の進歩から独自な世界を切り拓いてきたという独自な側面に注目する見方」もあります。瀬戸市の現文化課課長の服部文孝さんも、「1960~70年代にはヨーロッパの模倣から脱し、セト・ノベルティとして自立し始めていました。各メーカーが、それぞれ相手先によって独自の特色を出しながら、白雲(ハクウン)素地の製品や単体の鳥や花、精巧な造形・絵付けなど多種多様な製品を作り出すようになったのです」と述べています。
*とりわけ瀬戸ノベルティを創始し、瀬戸ノベルティのパイオニア企業であった丸山陶器の場合、その技術力の高さ故にオリジナルデザインを目指そうとしても十分に果たせなかった故加藤豊さんの無念さは計り知れないものであったろうと思われてなりません。こうした「ハンメル人形」の場合のように、ノベルティデザインのオリジナリティをめぐる問題は、瀬戸ノベルティがたどった陶都・瀬戸の宿命的悲哀を象徴的に物語るものであろうと言わざるをえないのです。
*大局的にみれば、瀬戸ノベルティはようやく独自な瀬戸ブランドづくりの段階に入っていましたが、その瀬戸ブランドづくりには乗り越えなければならない課題も少なくなく、地域を挙げて取り組むには至らないまま、1980年代後半以降の急激な円高の波に飲み込まれていったのです。 (参考:十名直喜著『現代産業に生きる技~『型』と創造のダイナミズム~』 勁草書房刊)


(↑アーナルト社が扱った丸山陶器製の『ハンメル風人形』:アメリカの雑誌:1960年6月号)

(↑居宅解体の記録作業の中で当会が発見した丸山陶器の提灯↓)
◆このほど、社会人大学生が当会の活動をテーマにしてまとめられたこの卒業論文『陶都文芸復興への架け橋となるか-瀬戸ノベルティ文化保存研究会の活動-』は、当会の活動とその可能性に触れて次のように述べています。
「研究会(瀬戸ノベルティ文化保存研究会)には広く豊かな交流による『ユーザー中心主義』、パラダイム転換を誘導する『デザイン主導主義』といったデザイン思考が認められ、ノベルティだけではなく、文化、芸術、産業全般に影響を及ぼす可能性が見えてきた。戦後日本の復興に貢献した瀬戸ノベルティであるが、壊滅からのトラウマは現在もこの地方に影を落としている。このトラウマを払拭し、陶都文芸復興への架け橋となることが研究会に期待される」。